市婦連協の総会と発会式は三八団体一二〇人で行われた。常任委員は戸津夫佐子・竹村マヤ・近藤マツ・鶴田美代・小笠原貞子・許士ヨ子(きょしよね)・小端千恵子である。翌年常任委員を九人とし、許士が退き梅田幸子・佐々木みよ(結核予防婦人会)・三浦章子(ふみこ)(鉄北平和婦人会)が加わった。会長を置かず常任委員と監事からなる委員会が運営に当たり、各団体から一人出席して開く毎月の例会の議長を常任委員の回り持ちにしたことが特色で、当番議長制は賛否両論あったが「民主的運営」として四十六年まで続けられた。市婦連協は、「相互の連絡協調をはかり、各団体の自主的活動を助長促進し、生活文化の向上に寄与すること」「婦人としての共通課題の調査研究及び研修活動」を目的とし、団体会費も定めた(二十年のあゆみ)。
初期の活動として三十年度は「公衆浴場の婦人洗髪料金全廃運動」に活躍(昭47廃止)、三十一年度は「物価調整運動」を始め、「いつくしみの鐘」(市民募金で丸井デパート、のち札幌テレビ塔にメロディチャイム設置)実現に尽し、札幌市婦人大会を開催した。第一回大会は「強く正しく子供のための母の集い」と題して、学校教育・家庭教育・社会教育の立場から語り合う三つの分科会をもった。また応募三五編の中から当選した「札幌市婦人の歌」が披露された。
三十二年度から機関紙を発行し専門部を設置した。月刊紙『札幌婦協』の第一号には、市長・市教育委員長・道婦人少年室長の祝辞、婦人週間行事と加盟婦人会の紹介、随想や「乳製品の話」などの実用記事がのせられた。発刊後一年間の紙面にみる市婦連協の社会活動には、「働く婦人の福祉運動」としての保育所訪問、中小企業に働く年少者と使用人主婦の懇談会共催、原水禁国際共同行動札幌大会へ「米・英・ソ三国に即時無条件禁止協定締結」のスローガン提案などがあった。さらに十二月東本願寺札幌別院で挙行された中国人俘虜殉難者北海道大慰霊祭に、李徳全紅十字会会長ら一三人の中国代表が参列したが、市婦連協の許士ら三人は助役と共に千歳空港に代表を迎え、慰霊祭に弔詞を捧げるなど市の女性代表として活動した。
専門部は変動が多いが、物価調整委員会(のち消費物資研究部)は精力的に実態調査に取組み、市に標準小売価格を発表させるなど成果を積んだ。三十六年、社会福祉部の発足で「すずらん金庫」の活動(当初は純潔金庫と称し、売春行為をなくし、生活苦からの転落防止を助けることをめざした)が始まった。年二回会員が街頭募金に立ち、道婦人相談所・市福祉事務所と協力して、緊急に救済を必要とする女性に貸付・給付を行った。
活動の発展とともに団体活動の拠点として、また生活技術・教養向上のための設備として、手軽に利用できる婦人会館への要望が強まった。三十四年三月に道婦連協は北海道婦人会館建設期成会(会長は竹村マヤ道議会議員)、八月に市婦連協は札幌市婦人会館建設期成会(会長は許士ヨ子市議会議員)を結成して道と市に建設促進を働きかけた。募金運動(道は一人一〇円、市は一人二〇〇円)は三十五年二月、北海道主婦会協議会(道主婦協 昭33結成)も参加して六〇〇万円をめざした。三十六年三月市議会は新築費五〇〇〇万円(道議会の補助金二〇〇〇万円)を可決した。北二条西七丁目に建設された「札幌市婦人会館」は、三十七年七月七日に祝賀式典と披露が行われた。鉄筋コンクリート三階建の延面積は約九〇〇平方メートル、内部にホール・和洋裁室・会議室・和室を設け、和室では宿泊もでき、道婦連協と市婦連協の事務室も確保された(婦人会館20年のあゆみ)。
写真-6 札幌市婦人会館