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連合国軍の札幌進駐と北海道地方軍政部

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 米太平洋陸軍総司令官兼連合国最高司令官であるマッカーサー(Douglas MacArthur)元帥が厚木に到着した昭和二十年八月三十一日から、連合国軍による実質的な日本統治がはじまった。連合国軍は十月に、武器徴収などの目的で日本各地に進駐した。北海道への進駐は、同月五日に米第八軍第九軍団第七七師団が函館・小樽に進駐したことにはじまる。札幌への進駐もその直後に開始され、日本側の建物が次々と接収された。教育関係施設でいえば、北海道帝国大学低温科学研究所が衛生大隊に、北海道第一師範学校が通信隊に、北星学園が病院として接収された。
 札幌市は渉外課を設置し、道と連携して進駐軍との対応にあたった。道は九月二十五日に「道民ノ心得」を通達し、札幌市長は十月三日に「進駐軍来道ニ伴フ学校側ノ措置ニ関スル件」を各学校に通達した。それによれば「進駐地関係ノ学校ニ在リテハ主管警察署ニ緊密ニ連絡ノ上(中略)民心指導ノ徹底ヲ期スル」こととされた。進駐のための休校については「関係学校協議ノ上学校長限リ之ヲナスコトヲ得ルコト」や進駐に当たって「児童生徒ニ対シ之カ心情態度ニ付充分徹底セシムルコト」とされた(西創成小 終戦ニ伴フ指令・指示並ニ処理文書綴)。さらに教学課長からの追記として「校下一円ノ整備、清掃ニ関シ児童活動ヲ促ス」(同前)とし、実際に国民学校の児童は、「町を綺麗にお掃除してさっぱりとした姿で進駐軍をむかへよう」(道新 昭20・10・3)と道路清掃にも狩り出された。また教学課によって米国理解のための講演会が開催され、国民学校校長が出席した(道新 同前)。進駐時には、進駐沿線の学校においては休校となった。当時手稲村にあった軽川国民学校の『学校日誌』では、十月五日から七日にかけて農繁という名目で臨時休業となっており、「進駐軍通過」と記されている。桑園国民学校でも休校となり、他にも途中授業打ち切りという措置をなした学校がある。
 連合国軍による日本占領の管理方式は沖縄を除き、いわゆる間接統治方式であった。この方式のもとで、最高司令官の指令の実施や地方行政の監視などの占領政策の任に当たったのが地方軍政部であり、その中で教育関係を担当したのが民間情報教育課(二十三年一月に民間教育課と民間情報課に分離)である。北海道にはまず二十年末頃に第一〇五軍政グループと七四軍政中隊が札幌におかれたが詳細は不明である。
 二十一年七月、地方軍政組織が本格的な活動に入る際に、北海道地方軍政部が札幌におかれた。軍政部は教育に限らず、政治・行政など様々な分野で大きな影響力を行使した。その後地方軍政組織は、二十四年七月に民事部に組織替えされ、さらに同年十二月から全国を八地方民事部のみが分担する縮小が行われた。北海道は、それ以前から「地方」の扱いがなされていたので、その機構にはほとんど変化はなかったが、その役割はだんだんと日本側に委譲された。軍政部の活動は、その上級組織である第八軍司令部に提出した『月間活動報告』で把握することができる。民間情報教育課の『報告』の内容は多岐にわたり、例えば学校視察や中学校・高等学校の再組織化、教育委員会選挙などが記されている。なお『報告』の記録者を中心とした軍政部民間(情報)教育課の教育担当官の主な者を表1としてかかげた。
表-1 北海道軍政(民事)部民間(情報)教育課の動向
氏名在任期間備考
ウルフ'45.10?~'48. 1課長?
マクダガード'45.10?~'48. 5青少年担当? 課長?
シモンズ(R.Simons)'45.10?~'49. 1課長
ニブロ(W.P.Niblo)'49. 1 ~'50. 8課長 長崎県軍政部から
ガスタフソン(W.A.Gustafson)'50. 1 ~'50.12課長 岐阜県軍政部から
マーチン(A.E.Martin)'51. 4 ~'51. 6課長 東北地方民事部から
へーガー(R.M.Hager)'51. 7 ~'52. 3課長 四国地区事務所から
ラコーラ(A.Rahkola)'51. 7 ~'52. 3東北地区事務所から
大矢一人「北海道軍政(民事)部民間教育課の人事」(『藤女子大学・藤女子短期大学紀要』第36号 平11)より作成。