戦後社会教育の中で青年団体と青年教育は重要な位置を占めた。札幌市の青年団体は五〇近くの単位団体からなり、それらは青年団、4Hクラブなどの地域青年団体と趣味、同好、レクリエーションを主とする団体に大別され、前者は主として札幌市青年団体協議会に、後者は主として札幌市青年活動促進協議会に加盟し、さらにYMCA、YWCA、ユースホステル協会なども含めて多彩な活動がなされ、全体として北海道青年団体協議会に結集していた。その数は昭和二十二年当時、札幌市で三〇〇〇人を超え、石狩管内では七五〇〇人が登録されていた。このような全道的な機運の高まりのもとで札幌市においても地域ごとに多様な青年団活動が繰り広げられた。
一方、行政の側からも青年教育について幾多の積極的施策が講じられた。その背後には二十八年に制定された青年学級振興法があるが、札幌市の場合には勤労青年教育に重点を置いていたこと、さらにその実施にあたって青年団体活動がこれに対する主体的な受け皿の役割を果たしたこと、がその特徴として指摘できる。二十九年三月三日、「札幌市青年学級に関する規則」が制定されると同時に実施に移されるが、これに先立って、二十六年から二十七年にかけて豊平町、簾舞、豊滝、平岸、西岡、滝野、豊羽、厚別、三里塚、有明、定山渓、札幌村などの各地域で青年学級が開設され、篠路村、琴似町、盤渓、新川などがこれに次いだ。このように、発足当初は概して都心部よりは周辺・農村部で活発であった。会場は小・中学校が当てられた。
やがて、三十年代から四十年代に入ると、青年学級は都心部と周辺部では異なった方向を示す。前者では企業に勤務する二五歳未満の男女を対象として編成された職域青年学園が主流となる。会場は企業またはその共同施設があてられた。後者では二五歳未満の男女を対象として地域ごとの青年学級として編成され、小・中学校を会場として実施する地域青年学園が重きをなし、地域における共同生活と村づくりに重点が置かれた。
市はさらに四十四年六月九日に、第一商工青年学園を開設した。これは文学、歴史学、経済学、哲学、心理学などのコースごとに四〇人の定員(一五歳以上二五歳未満の男女)を設定してレベルアップした教養の涵養を目的とした。併せて、リーダー養成講座、グループ援助・相談などの場も開設した。
このように青年教育は時代とともに変化してきたが、それは札幌市の人口の急激な増加とそれにともなう勤労青年の増加、高校進学率の上昇などの事態に照応する内容と体制の変化とみることができる。また、当初から学級を基礎とする学習者の主体的活動を一貫して重視してきたことも一つの特徴をなしてきた。この点で他町村における公民館を場とする学級活動に比べてとくに遜色はなかったといえる。
同時に、この間、青少年施設についても、勤労青少年ホーム(三施設)、青少年会館(二施設)、ユースホステル(三施設)が相次いで開設した。また、四十七年五月には真駒内に北海道青少年会館が開設された。