昭和三十年は、道展三〇周年、全道展一〇周年という節目の年であった。その翌年の七月十六日、北海道で三つ目の公募展となる新北海道美術協会(新道展)の発会式が行われた。道内には二つの公募展が存在しているが、応募者が多数いるにもかかわらず「壁面の不足から極端な厳選となっており、あたら優秀な作家も落選の憂き目にあっている」状況は、「健全な公募展にとって決して正常な姿ではない」とし、ここで公募展が増えるのは「自然であり、いわば道内出品者の数の増加にともなって派生したものである」というのが、設立の趣旨であった(道新 昭31・7・17)。結成の中心となったのは菊地又男と義江清司で、設立時の会員は三一人となっている。
菊地は三十一年八月一日の『北海タイムス』紙上で、「技術的な段階を経なければ真の抽象画が生れないという考えには真向から反対だ。(中略)いままでの絵に対する既成概念とは別個のところから、ほんとうの芸術作品が生まれてくるのだ、自分を表現したいという衝動にかられて、夢中になって描いてしまった子供の絵そうした作意(ママ)のない生活の中にこれからの芸術の素地があるのではないか、これを新道展の中でうちだしたい」と語っている。
同会は「北海道在住の美術家及び美術同好者の緊密な連携のもとに、純正にして最も進歩的な美術の興隆を図ること」を目的とし、八月四日から十日にかけて第一回新道展を開催した。搬入点数は五八七点、入選九九点で、新北海道美術協会賞に佐藤吉五郎、知事賞に園田郁夫、市長賞に小川全が選出されている(美術史)。
このようにして発足した新道展ではあったが、設立当初から会場に悩まされていたようである。第一回展は産業会館、二回展は五番舘六階、三回展からは市民会館が会場となったが、市民会館は「展覧会のギャラリーとしての要件をほとんど充していない上、入場者もすくない」(美術史)ところであった。小川全は、第一〇回新道展目録において「発足したばかりの新道展の第一の悩みは会場だった。(中略)市民会館が会場では、会期中にせいぜい二千人程しか足を向けてくれない」と嘆いている。道展と全道展という二大公募展に押されて「第三勢力的な浮き沈みが続」き、「四回展の後は会の解散は決定的とされ」(第一〇回新道展目録)ながらも、第一四回展(昭44)の頃には会員数も六十数人、会友を合わせると一〇〇人を超えるほどにまで成長している。