戦後の文化の大きな特徴としては、文化行政に教育委員会がかかわってくることと、文化団体が多く結成されたことがあげられる。
市教委で文化行政を担当したのは、当初は教学課の学務係、教化係であった。その後、社会教育課の文化係、教養係、昭和二十五から二十六年は同課公民係、文化係、二十七から三十三年は社会教育係、管理係、三十四から四十四年は成人係、少年文化係、四十五年からは文化係、成人教育係、青少年教育係と所管が変わった。
三十三年七月に札幌市民会館が完成したが、使用料が高く市民の利用が限られていた。そうした不満を解消し、施設の有効活用をはかるべく考えられたのが札幌市民劇場であった(本章第四節参照)。「在札の各団体の舞台芸術の創造と健全な娯楽の提供を目的」とし、三十四年三月七日に第一回公演を行った。
四月一日には、札幌市民劇場運営委員会規約が施行された。運営委員会は「市民会館およびその他の公の施設を活用し、芸術・文化の推進を図り、その発展に寄与することを目的」としたもので、事務局は市教委の社会教育課内に置かれた。事業内容は、(一)原則として月二回の公演の開催、(二)市民劇場優秀公演の奨励、(三)芸術・文化の振興、(四)その他、目的達成に必要とするもの、であった。三十四年から、その年発表の優秀な個人及び団体に市民劇場奨励賞が与えられるようになった。三十五年からは特別公演制が設けられ、出演団体には市が助成金を出すこととなった(札幌芸術文化年鑑 一九七一)。
市民劇場とともに市教委がかかわった事業としては、市民文化祭がある。二十三年に市教委の社会教育課文化係、教養係で第一回市民美術展を開催したのが始まりで、以降市民合唱祭、新人音楽会、短歌大会、俳句大会等さまざまな分野にわたって開催されるようになった。この中で市教委は、美術展の優秀作品の買い上げや、東京フィルハーモニーと札幌の合唱団の合同演奏会(昭26)に補助金を出したりしている。四十七年からは、札幌文化団体協議会会長でもあった国松登を委員長とする、札幌市民文化祭実行委員会が組織され、市教委とともに活動していくこととなった(市民文化祭のあゆみ)。