神道指令によって一切の公的財源を断たれた事は、神社にとって最大の危機であった。さらに、昭和二十一年十一月十六日には「町内会隣組等による神道の後援及び支持に関する件」の指令がでて、町内会等をとおして神社の祭礼の資金を集めたり、お守りやお札を配ることができなくなり、町内会と神社の氏子組織とは明確に分離することになった。神社は「個人の宗教」にもとづく「信奉者」を、氏子として新たに組織することが迫られていた。
札幌神社の「札幌敬神講社」は戦時下に改組され、総長を札幌市長、「札幌市公区員ヲ講員」とし、経費を町内会ごとに徴収する文字どおり官民一体の氏子組織であった(市史第四巻 一〇六七頁)。そのため、二十一年三月、名称を「札幌神社敬神講社」と改め、「札幌神社ヲ崇敬スル講員ヲ以テ組織スル」こと、講員は「必要アル経費ニ充ツル為年額金五円以上ヲ拠出スル」とし、講長は「年番区代表委員中ノ一名ヲ宛テル」と規約を改正した。また、奉賛団体も改組され、二十一年、旧祈請会がいちはやく「祈請講」となって新年祈請祭、節分祭を執行している。その後、二十五年に旧小作組合交誼会が「交誼講」として発足して、正月、花見、例祭等に労力奉仕を行った(神宮史)。
氏子崇敬者の再編は、かつて民社だった神社では、きわめて当然なことと受け止められ、従来の慣行にたのんで新たな講社の再組織化がめざされた。琴似神社では、敗戦直後にもかかわらず、二十二年に氏子から浄財を募集した三〇万円をもって神輿を新調し、二十三年に初渡御を行っている。さらに二十六年には、「凡そ戦後全道的に見て当社が最初の計画」と伝えられる社殿の造営に着手し、二十八年に竣工した(琴似町史)。新琴似神社では、二十三年十月、「新琴似神社運営の基本団体として敬神講」が結成されている(新琴似百年史)。屯田兵村の歴史とともにある琴似、新琴似の両社にかぎらず、開拓時代の苦難をささえた村の鎮守への思いは深く、氏子の人々は、神道指令に動揺する神社を物心両面にわたってささえていた。神職が常駐しない信濃神社においても、二十一年十一月に「神殿渡廊下造作、予算二六〇〇円」を計画し、「募金額三五三四円、残金八三六円、秋初穂料米一石六斗九升、金一三三二円」という決算記録を残している(信濃神社百年)。