戦後、主要寺院では火災・類焼が相次いでいた。新善光寺(浄土宗、南6西1)は昭和二十一年五月五日に類焼し、真宗高田派専修寺北海道別院(南4東4)は二十三年十月十四日に類焼し、二十四年七月に本堂を新築していた。日正寺(日蓮正宗)は二十九年三月二十七日に、北一〇条西一丁目の旧地にて類焼に遭い、同年九月に北三六条西四丁目へ新たな寺地を求めて移転していた。成田山新栄寺の本堂も、三十九年十月二十二日に焼失している。
市街地の都市化にともない、騒音や環境悪化を避けての移転も行われていた。隆光寺(真言宗)は、三十六年に北五条西二〇丁目から円山西町二丁目へ移転していた。西本願寺札幌別院は薄野の盛り場に位置し、日曜学校、ボーイスカウト、ガールスカウトなどの青少年への教化の場として不適切な場所となっていた。そのために三十七年七月に、南四条西五丁目から北海道札幌西高等学校の跡地であった北三条西一九丁目へ移転した。あわせて同所に三十八年四月に、龍谷学園札幌女子高等学校を開学していた。札幌別院では四十五年七月に本堂などが完成し、三日から五日にかけ落成法要と共に、戦没者・開拓功労者の追悼法要が行われている。新施設は一階に大ホール、大広間、二階に本堂、納骨堂も一、二階にあり、総面積が四八五平方メートルという、「東京以北で最大」(道新 昭45・7・4夕)という広壮な伽藍であった。なお、旧本堂の建物は新潟県巻町の明誓寺へ移設されている。
大谷派では市民教化のために北九条、北三条、豊白、円山、山鼻の各教会を二十三年五月に支院へと昇格させていたが、大正九年に既に支院となっていた南三条支院は、二十九年九月に近代的なビル建築に着手していた。だが、資金の問題があって一時工事が中止となり、読売新聞北海道支社が入居することによって工事が再開され、三十四年に完成している。