二十四年四月十七日早朝には、真駒内の占領軍キャンプで、占領軍と日本基督教団諸教会による日米合同の復活祭が行われ、二〇〇〇人が集まった。この集会には田中敏文知事、高田富與市長の祝辞が寄せられ、占領軍の行事に対する自治体首長の反応の一端をのぞかせている。
信教の自由を回復し、占領軍との友好的な関係を持ったキリスト教界は、当時から〝キリスト教ブーム〟とよばれる活況を呈した。数字を挙げて札幌におけるブームの全容を描くのは難しいが、キリスト教会の伝道の成果を示す指標の一つである受洗者数(洗礼を受けた人数。但し幼児洗礼を除く)を、プロテスタントの北一条・福音ルーテル両教会を例に掲げておく(表3)。北一条教会は、市内では最も大きいプロテスタント教会でキリスト教ブームを吸収しやすい市の中心部、北一条通にあり、ルーテル教会(かつての山鼻教会)は中心部から南にはずれた住宅地に位置し、ブームの影響が少なかったとされている教会である。
表-3 戦後受洗者数の推移(昭和20年~28年) |
-日本キリスト教会札幌北一条教会と日本福音ルーテル札幌教会の場合- |
昭20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | |
札幌北一条教会 | 15 | 69 | 130 | 94 | 132 | 90 | 62 | 45 | 37 |
日本福音ルーテル札幌教会 | - | - | 1 | 3 | 3 | 26 | 17 | 17 | 16 |
札幌北一条教会『100年史略年表』,日本福音ルーテル札幌教会『宣教七十五周年の歩み』。 |
表3に見るように両教会とも二十四、五年頃に受洗者数の頂点があったことが分かる。キリスト教ブームは、ほかにも朝夕の日曜礼拝、伝道集会数にも反映している。このブームの性格を各教会史には、「戦争、終戦と混乱した社会に直面し、荒み切った人々の心にも、ようやく落ち付きが取り戻され、教会の門をくぐる人の多くなったのもこの頃(昭和二十二年)からである」(山鼻カトリック教会三〇年のあゆみ)、「戦争による暗黒時代から新しい時代を迎え、政治的、経済的、社会的混乱の上に精神的支柱を失った青年層は、新たな心の宿を求め、特別伝道集会をはじめ、礼拝や聖書研究などに出席した」(札幌教会百年の歩み)と捉えられている。戦前の価値観の喪失を埋めるものとして、また国民共通の理想とされた民主主義、文化国家の「根本原理として」(札幌北一条教会一〇〇年史)キリスト教に期待が集まった。
プロテスタント、カトリックの諸教会の活況を全体的に見るならば、戦後、二十四年前後を頂点として二十六年頃まで、キリスト教ブームが続いたと概括できよう。『北海道新聞』には、戦後の〝キリスト教時代〟が、このころようやく「落着き」をみせたと、次のような記事でブームの盛衰を要約している(昭27・10・13)。
終戦後アメリカ軍の進駐、アメリカ文化の流入に刺激され、信仰よりもアメリカ的なもの、より文化的なものを求めて教会を訪れるものがドッと押し寄せたこともあるが、こういった種類の青年は信仰生活からすぐ脱落して日本人もすっかり落着きを取りもどした現在では教会の門をたゝくものは宗教的なものを求める人だけに限られ、終戦直後に比べると数的には少なくなったが、質的には向上したというのが偽らざる姿だ。
同時にこの記事では、教会の新しい来会者のうち洗礼を受けるに至った受洗者、とくに青年が信仰を続けることの困難さにも触れている。
右の見方は、当時の教会側の見解に添ったものであり、今日の各教会史からも、二十六年頃の教勢の下降は、「敗戦後の精神的混乱に、キリスト教に走った熱が冷却期をむかえ出したことと、新日本建設キリスト運動が、真に実を結ばなかった(受けいれ態勢の問題とともに)ことによる」(札幌北光教会七十年の歩み)と、総括されることが多い。教会側からは戦後の参集者の多くは、教会定着が難しく、信仰の受容・持続という点で問題が多かったとされている。一方、教会を去った側の視点からすると、キリスト教への期待とそこで得られたものとの落差が大きかったということであろう。ただ、キリスト教ブームという社会現象は、キリスト教会の伝道成果、信徒の定着という視点のみでは、捉えきれない側面があり、札幌でもキリスト教への理解者を増やし、活動の規模を拡げた点があったことも見逃せない。