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消費者運動の変遷

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 昭和四十年代後半期からの消費者運動の特徴は、石油危機に直面して各団体が消費者の立場で連携し、国や業界に抗議、改善運動を行ったこと、生活を見直し、量から質への転換を図ったことである。低成長期の五十年代後半期は、国際化の進展から輸入品の急増と安全性への不安、米の市場開放などがあり、バブル経済期およびバブル崩壊後は地球環境問題や製造物責任など、問題が複雑化し、日常の暮らしが地域と地球規模の環境問題に密接に関連するため、消費者保護とともに自立が叫ばれた。以下は、その間における消費者運動の概観である。
 (1) 札幌消費者協会活動の拡大 札幌消費者協会は、「消費者保護基本法」(昭43)施行の翌四十四年に設立され、五十年に会長が後藤まさから山本順子に受け継がれ、会員も当初の六〇〇人から六十三年には三一〇〇人に増加した。五十二年には市民待望の消費者センターの開設にともない、同協会事務局は消費者センター内に移転し、先述の相談業務などを委嘱された。毎年消費者大会を開催し、「主権を消費者に」をスローガンにして個人の問題を全体の問題として討議し、改善を図っている。
 協会の教育部では、一般向けの消費生活講座を開設し、相談事例を取り上げるなかでだまされない、不利益を被らない賢い消費者をめざして学び、北海道経済のテーマでは金利の引き下げやマル優廃止など新制度を積極的に勉強するなど、男性の入会者も多い。調査部は消費者運動の原点である試買調査や価格調査、意識調査により問題を把握し、署名運動やキャンペーンなど行動を起こすことで他の団体とも共同して解決し、自立する消費者への支援も図っている。最前線の地区活動は各区において講習会や不要品交換会、リフォーム教室など若いお母さん会員を増やす工夫もしながら、同協会(平2 社団法人化)は消費者問題を市民、業界、生産者、行政を含めて、科学的な検証を通して地道に調査、解決し、結果をもとに広く啓発運動を行い、札幌の消費者問題解決の基盤づくりと運動の牽引役を担ってきた。
 (2) 「北国のくらし」創造と北国の生活研究会発足 昭和五十五年(一九八〇)七月、札幌市は北国に暮らす者の叡智と実践を消費生活に活かし、札幌の冬のくらしの改善を図るため、新札幌市長期総合計画の「第二次五年計画」において「札幌市北国の消費生活研究会」を設置し、その後平成元年に事業を札幌消費者協会に委託した(市消費者行政事業概要 二〇〇二年度)。同研究会は消費者、学識経験者、行政で構成し、衣・食・住の各生活部会を設け、北国にふさわしい消費生活を創造するために、具体的な調査研究の成果を市民に提示し、日常生活のなかで実践し利用してもらうこととした。
 五十五年の研究テーマは、北海道の気候風土に適したジャガイモをとりあげ、冬期に不足しがちなビタミンCが豊富で加熱に強い優れた点を強調し、ジャガイモ料理のレパートリーと貯蔵方法を知らせ、道内産物の消費を推薦した。その他、灯油の節減と効率化のための「手軽にできる窓の断熱工夫」、「簡単にできる室内着の工夫」であり、いずれも物価高騰から生活を防衛する当面の問題解決であったが、その後は次第に本格的な生活様式と製品など、暮らし全体の見直しと、「北国のくらし」の自立と確立をその方向性とした。研究内容もより具体的で、実際に北国仕様の子供防寒着や寒靴を五十六年十一月に五番舘が製品化し、「ノースティック」ブランドで五十七年に販売された。

写真-2 アンケートにより製品化した子供のスノーウェアー(昭56.11)

 それまでは、寒冷地の札幌市民に不向きな本州製造品でも仕方なく着せていた子ども防寒着などであったが、素材や本州仕様のデザインを見直し、現実の北国生活に見合った物に改善することで自立した消費生活を営むことができるとした。このような観点は、リトル東京からの脱却と自立をも意味した。また、六十年代から、冬季の氷結した「ツルツル路面」に足を取られて転倒する怪我人が毎年続出し、救急車で運ばれた件数は、平成四年十二月には一カ月間で二七九件に達し、前年の二・六倍に増えた(道新 平5・1・25)。このことから、同会は、六、七年に滑りにくい冬靴を検討し、業界がさまざまな工夫を施した滑りにくい靴や、滑り止めのステッキなどを製作し始める契機となった。
 大量生産大量消費の時代から本物の豊かさを求め、冬の札幌の生活を積極的に楽しむことをめざして、研究テーマは表6のように変遷した。同研究会は、「消費者は、単に商品を使うだけの受け身ではなく、生活者として暮らしに主体的に関わっていく必要がある。暮らしも全国一律ではない、地元の知恵を」(山本順子会長)と、地域のくらしのなかから生活文化を創造し、北国として質の高い暮らしのありかたを追求し実践している。
表-6 北国の消費生活研究会のテーマ(昭和55年~平成7年)
年度
昭55簡単にできる室内着の工夫家庭でできる野菜の越冬貯蔵の仕方手軽にできる窓の断熱工夫
 57子どもの冬の屋外遊び着家庭で気軽にできる保存食無落雪屋根(M字型屋根)と住宅結露
 58子どもの冬の屋外遊び着とトレーニングウェアと着用実態北海道の特産物を多く取り入れたシチュー料理補助暖房器の効果的な利用とポット式石油ストーブのしまい方
 60冬の男子通勤着の実態調査考えよう朝食を―さわやかな札幌の朝トイレ用暖房器使用実態調査
 62毛皮に関するアンケート調査ブルーベリーを使ったお菓子と料理小型除雪機調査と使用テスト、わが家の除雪の工夫
 63手編み毛糸・毛糸製品アンケート調査ソースで食べよう北の味覚ホームタンクの実態アンケート調査
平 6冬靴を考える北の料理を考える
  7冬靴を考えるパート2心とからだをあたためる
『札幌市消費者事業概要』各年度より作成。

 (3) 市民生協コープさっぽろの展開 札幌市民生協は、石油危機ではプライスリーダーの地位を確立し、先述した灯プ連の中心となって物価問題で消費者運動を牽引してきた。一方、店舗展開においては「急成長路線」と呼ばれる政策を実践して広域化を図ったものの、組合員の出資金の停滞や、事業拡大に伴う人件費の占有率など、事業高と自己資本率のアンバランスから借入金が増大し、昭和四十年代後半期に経営困難が発生した。経営の内部構造問題に加えて、四十八年(一九七三)に西友が月寒地域に出店して以降、市内の量販店の系列下支配が進み、生協運動を取り巻く商業環境が激変し、量販店との過当競争時代に入った。五十一年には生協事業が小売商を圧迫するとの理由で、「生協法の員外利用禁止規定と地域制限規定の強化」が起こり、市議会でも同年九月、「生協規制」が決議されるなど規制が進行した。五十三年には道内二位の実績を持つ中央市民生協が経営困難となり破綻したことを契機に、統合合併による再編成が実施され、平成二年に市民生協コープさっぽろに改称した。その後、地域活動、福祉活動、社会教育活動を協同する組織として、二年度総会では組合員カードの採用、介護知識の普及、資源のリサイクルと緑化、生活相談とボランティア、原爆犠牲者援護、ユニセフ普及活動、事業所のスクラップアンドビルドを決定した。バブル期に拡大路線によって多額の負債を抱えたが、日本生活協同組合連合会(日生協)の支援で再建に取り組み、十二年には「生活協同組合コープさっぽろ」に改称し、「食への回帰」の基本路線や利益率の高い共同購入の強化、人件費の削減、不採算店舗の閉鎖などにより、十五年には増収増益に達した(北海道生協運動史、協同組合の基本的価値―札幌国際シンポジウム報告、道新企業ファイル二〇〇三)。
 店舗の展開や共同購入以外にも、くらしの調査活動として家計簿活動や文化活動が昭和五十年代後半から盛んになった。よりよい暮らしを求めて組合員があつまる生活協同組合の精神から、「平和なくしてよりよい暮らしはありえない」と、内部の消費者運動委員会が市内で、「核兵器ノー戦争ノー、母と子の平和展」の開催や、北海道と戦争について組合員の戦争体験の記録運動に取り組み、一六〇人による『明日に語りつぐ 私の戦争体験記』を六十三年に刊行した。
 (4) 生活クラブ生活協同組合北海道の誕生 昭和五十三年に北区屯田に鶏卵の共同購入たまごの会」が生まれ、三四グループ・会員数も六〇〇〇人を超えたことから、五十七年十二月に出資制度の生協法人として「生活クラブ生活協同組合北海道」が設立された。もとより「たまごの会」を設立した創設者らの、「自主的で自発的な共同体を都会の中にどうつくるか、コミュニティーの再構築が夢」であったように、生活者の立場から生活を見直し、生き方を変えるいわば夢を実現する場として誕生したのが生活クラブ生協であった。
 地域の何人かで班を構成し、食を中心とした、日常に必要な「消費財」の予約共同購入が活動の軸である。その店舗を持たず「予約共同購入」方式をとることで、人と人とのつながりをつくり、そこから、環境、エコロジー、リサイクル、合成洗剤追放(石けんキャラバン)、反核・平和や、地方議会に議員を送り市民自治を拡大する代理人活動などの運動や、協同組合まつり、生産者との交流、バザーなどさまざまな活動を行っている。
 たとえば、組織と活動の代表的な特徴は以下のように、①「消費材」を独自に製造元に依頼し、安全な北海道産丸大豆醤油や低温殺菌牛乳、無農薬タマネギなど、従来の大量生産型や流通メーカーが効率の悪さから着手しない物を開発し、共同購入している。②クラブが取り組んでいる石けん、反原発、ゴミ問題など暮らしの中の課題の解決を図るため、代理人を市議会や道議会に送る活動では、平成二年に政治団体「市民ネットワーク北海道」を設立し、「人任せの政治からの転換を」めざして、三年の統一地方選挙で札幌市議会に三人を送り出した。そのほか、③ワーカーズ・コレクティブは、誰かに雇われて働くのではなく、働く者自身が出資してそれぞれが事業主として対等に働く、「もう一つの働き方」の事業体として四年に設立された。託児、家事手伝い、料理仕出し、事務一般、学習指導の各ワーカーズが誕生し、地域密着型の仕事をしている。また、十四年(二〇〇二)には生活クラブ連合会の女性委員会との共催による、「アジア姉妹会議二〇〇二シンポジウム」を札幌で開催し、韓国、台両国の女性消費者団体と食の安全性や「主婦」の無報酬家事問題の「アンペイドワーク」について現状を報告し合い、共通の課題の解決方法を模索した(ASIM 2002 SYMPOSIUM)。会員一万三〇〇〇人(平成十四年度末 理事長・伊藤牧子)の生活クラブ生活協同組合北海道は、社会運動の側面と経営組織の面をあわせ持ち、さらに、ワーカーズによって「専業主婦」が経済的自立を図り、地域社会参加も目指して活動する新しい型の生協運動である(生活クラブ生活協同組合創立20周年記念誌)。