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地域婦人会開設の学童保育所

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 札幌市の留守家庭児童育成会を施策面と保護者の運動および動向の面からみると、次の四期に分けられる。一期は昭和二十九年、民生部主管による地域「婦人」会が自主的に開設・運営した時期であり、二期は四十一年、教育委員会に移管し、市および文部省の助成による留守家庭児童育成事業を開始した時期である。また三期は五十七年、市児童健全育成事業の中に留守家庭児童会を位置づけた時期であり、四期は平成十年、「放課後児童健全育成事業」として初めて法制化・施行された時期である。以下はその具体的な動向である。
 市における学童保育の必要性が社会的に表面化したのは昭和二十八年である。国の地方青少年問題協議会設置法(昭28)に基づき、市は二十八年十一月七日に札幌市青少年問題協議会条例を制定し、市青少年問題協議会(市議会議員・学識経験者・市職員によって構成)を設置した。同協議会の目的は、市における青少年対策に関する総合的施策の調査と審議を行い、その社会で講ずべき青少年対策について市長に意見具申を行う役割を持っており、地区別に設置した各地区青少年問題協議会(昭47・4・1政令指定都市施行により各区に設置改組)が地域の問題点を提起することとした(青少年対策のまとめ 昭和49年度版)。
 学童保育の必要性は東小学校(大通東六丁目)校区の地区青少年問題協議会メンバーから提起された。二十八年の同小学校児童の放課後生活調査では、全校児童二三二二人中、放課後の家庭に両親のいない児童が約一割であり、内訳は両親の共働き世帯が九七人、母子世帯一〇〇人、父子世帯二五人、両親ともいない世帯が三人であった。共働き世帯よりも母子世帯が多いのは父親の戦病死や行方不明、未婚の母親など戦争被害の状況を直接・間接に反映していた。同調査の動機は「成績の悪い者、遊び癖のある」児童に対して、「放課後の放置が不良化の原因となるので保育所が必要だ」(道新 昭28・3・1)といった「欠損家庭」や「不良化」の面から監護の必要性を求める考え方が主流であり、共働きも貧困を原因とするものであった。
 最初の学童保育所は三十一年十二月、豊平主婦の会などが豊平、菊水地区の境界に共働き家庭の子どもの拠点にと、やよい児童会館を開設し、続く三十一年、南小学校(藻岩下三八八番地)に藻岩下婦人会が、米人・ウォルカー牧師による寄付を得て藻岩会館を無料で借り受け、四〇人を対象にした「学童託児所」である(道新 昭31・12・14)。三十三年には琴似小学校(琴似町琴似)の教室で地区民生委員学童保育所を開設したが(道新 昭34・3・6)、資金運営が困難となった。翌三十四年に琴似中央小学校の校区である八軒中央婦人会がそれを引き継ぎ、会場を同婦人会所有の八軒福祉センターに移設し、八軒子どもの家とした(道新 昭39・12・27)。これら三カ所については、すべて地区青少年問題協議会メンバーである「婦人」団体の自主的な開設と運営によるもので、市の補助はないままであった。
 市が民生部主管で独自の「児童育成施設設置要綱」を定め、補助金の予算化を開始したのは三十四年度である。運営を各学童保育団体の運営委員が行い、市は補助金(年間九万円)のほか時々アドバイスするというのが要綱の趣旨であった。八軒子どもの家のように、補助金だけでは婦人会が雇用した保母の一年分の給料にもならず、おやつ代を集金し廃品回収や寄付金などで赤字を防いでいた(道新 昭34・3・6、39・12・27)。四十年度末現在で一年生から六年生を対象に、北光子供園、美香保子供園、上町会館、発寒福祉会館、やよい児童会館、南児童園、八軒子どもの家など合計一〇カ所の民間学童保育所(五〇〇人)が開設され、そのうち小学校利用が三カ所であった(留守家庭児童会の現状と課題)。