吟味につき申上げる文書
田高四四石余は用水がなくて畑作になっていたが、これまで田の賦課率で年貢を納めてきたので、当戌(寛政二年)よりは畑の賦課率で年貢を納めるようにお願いしたい。
当村(西江部村)の水田は、隣りの岩舟村と吉田村の落ち水を使って耕作してきたが、用水が不足して干あがってしまうので、仕方がなく水田を潰して畑作にし、田の年貢で納めて来た。
一昨年、代官久保平三郎様にお願いしたところ、出来るだけ努力して用水を引くように命じられて願書は取り上げてもらえなかった。どのような方法をとっても水の取り入れ口が無く、百姓はみな困り苦しんでいた。
去る酉(寛政元年)四月、御料所巡見使が回ってきた時に直接願書を差し出したところ、見分吟味していただくことになった。その折に、長年弁納せざるを得なかったというが、なぜ最初から申したてなかったのかなどと問われた。
当村には溜池などがなく、岩舟村地内の湧水池三か所からの余水を用水にしていたが、寛保二戌年の大水によって三か所あった湧水地が一か所になってしまった。このような事情になったので、用水路浚いや水源探しなどをしたが、どのような方法を試みても用水を取り入れることができなかった。
最初は、手入れに情を出せば立直ると思ったので、訴もしないで様々な方法を講じてきた。しかし、だんだんと水筋が乏しくなってしまったので、仕方なく田を畑作に代え、田の年貢として弁納することになった。
このようなありさまで長年百姓が困り苦しできたので、安永八亥年(一七七九)岩出伊右衛門代官の時にも、畑の年貢にしていただきたいと願い出た。しかし、容易でない願いなので、なるべく手入れに情を出して年貢を納めるように命じられ、願書を取り上げてくれなかった。
その後、原田清右衛門代官になって願書を出したが、時節もあるからと取り上げてくれなかった。
久保平三郎代官になって願い出たところ願書を取上げてくれたので、見分などがあると待っていところ、代官が代わって見分吟味ができなくなり、後ほど願うようにと願書は返されてしまった。
もはや解決の方法もなく百姓一同がとほうに暮れていたところ、去る酉年巡見使が回ってきたので止むを得ず訴えた。
前書の三町七反歩余の田から畑になった分は、これまで納めてきた田としての年貢を許していただき、当戌より畑としての年貢にしていただければ、百姓一同は助かり幸せである。