1、「違作書留帳」

違作書留帳
松本市文書館 小松芳郎

 「違作書留帳」は、近世村神戸村の村役人を務めた丸山家の文書群5600点余のなかのひとつです。
 「違作書留帳」は、天保4年(1833)から11年(1840)にかけての記録で、当時全国に被害をもたらした天保の飢饉に関して、その被害の状況や飢饉に至った際の対応の方法、村の様子などについて角之丞の見た範囲を記したものです。「御用留」などの公的な記録の綴りとちがって、角之丞が被害の様子や飢饉時の心構えを後世に伝えたいという意図を持って作成した文書なので、丸山家を取り巻く周辺の状況がさまざまな感情を込めて書かれています。
 この頃、東国の広い範囲では天候の不順により、深刻な飢饉に見舞われていました。当時の丸山家当主の丸山角之丞は、毎年作成している「御用留」や家政に関わる公的日誌のほかに、とくに天保4年から11年にかけてだけ、飢饉を乗り切るための薬の処方、食物となる草木の種類とその食べ方、天候不順の際に作付けして当たる稲の種類豆の作り方米・豆の相場など、飢饉時の対処法だけを書き抜いて記しています。おそらく飢饉が下火となった天保11年の段階で、一気に書き上げたものと思われます。
 日々の天候異常や作物の生育状態に対する観察は、例年と比較して客観的に書かれており、天候を予測してどのような作物を作付けしたか、結果どうなったかなどの観察も具体的です。また、疾病の流行や、続出する病死人に対しても村役人としての立場を越えた感情とともに描かれています。
 この「違作書留帳」は、すべて同年の公的な日記の記述と対応する形で作成されており、日常的な記録のなかから抽出する形で作成されたものです。日々の生活を記録し、それを保存して村の生活のなかにのこす村役人の仕事は、日常生活全般の記録をのこすことによって果たされています。
 角之丞氏は「違作書留帳」を作成するために、自分の作成した記録のなかから伝えたいものを選びぬいて、一つの文書に仕立て上げて後世の丸山家に伝えたいために書き残したのです。天明期・享保期など、江戸時代にはいってからの飢饉のたびに、現状を目の当たりに見て記録してきた村役人にとって、防げる災害に対しては、過去の教訓を生かすことによって防ぎたいという意志が、この記録をあえて作成させました。
 この帳簿の最後には、角之丞自身が筆を持つ姿が描かれており、その絵のなかに「丸山子々孫々へ」と記し、この書留を作成した願いをこめています。角之丞のこのときの年齢は五六歳でした。
 近世の村役人を務めた家に伝来する文書には、村に関わる公的な書類が多いなかで、「違作書留帳」は、家の子孫に宛てた私的な文書であり、また飢饉という緊急時に村役人として奔走した角之丞の姿が、少しばかりの自負とともに書かれています。
 記録をのこすことそのものを、「子々孫々」への仕事と認識していた角之丞の史料保存に対する意識には、「違作書留帳」で伝えようとした情報以上に学ぶべきものが多いと思います。過去の非日常的な出来事を乗り切るための取り組みと、その対処法を残した角之丞の記録は、未来の人々に、文字に残された教訓としてのこされたものです。