○小県郡は長野県管内の一郡で千曲(ちくま)川の中部流域に沿ひ、所謂(いわゆる)信濃六地 7
方としては小県佐久平の称を以て一括(いっかつ)せられてゐる。然(しか)し其平たるや佐
久平と自ら一区を劃(かく)して存在し、随(したが)つて地勢(注1)上人性(注2)上甚(はなはだ)しく相違点を見出し得る。古来の文化域を以て見るも小県郡は信濃国分寺を中心として
……其前後中心が少しづつ其附近(ふきん)に移動したこと有りとするも……他の
文化域とは特に異つて発達して来たことを推察し得られる地方である。
○本書は此小県郡の民謡を蒐集したもので、分つて児童謡と成人謡との
二類とする。前者を子守謡、言草謡、遊戯謡、行事謡の四別とし、後者
を郷土謡、風習謡、流行謡の三別とした。更に其細目を数十目に分つて
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見た。
○本書所載の民謡蒐集は依田窪(よだくぼ)地方にありては武石村を、河西(かわにし)地方にありては中塩田(なかしおだ)村を、河東地方にありては県(あがた)村を、上田平地方にありては上田町(現在は市)神川(かんがわ)村神科(かみしな)村を中心地として傍(かたわら)其隣町村のものを以て補充した。これによつて小県郡の名を冠せしめた。然れども郡の全町村
に亘(わた)り各種の人に就(つ)き網羅(もうら)蒐集した結果でないから漏れてゐるものも多いことと思はれる。
○本書所載(しょさい)の民謡は吾等の祖先より謡ひ伝へたもので、又蒐集時(明治末
年)まで謡はれつつあつたものであつた。……而かも郷土人の声として音
樂生活文学生活に入る門として……今では既に忘れられて謡ひ絶えて滅
びたものも随分見うけられる。されば蒐集時資料提供者の記憶に存して
居たもののみで既に其頃謡ひ絶えて滅びて居たものも有つたであらうし
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又資料提供者以外の資料保有者も有つたであらうと思はれる。それらは
又資料を蒐集するに随つて何時(いつ)か一括して見たいものである。
○本書所載の民謡提供者は蒐集中心地なる各町村の小学校児童並に同町
村及び其隣町村における学友と予(よ)が家族及び親戚の人々である。それで
悉(ことごと)く芳名(注3)を掲げることが出来難(できがた)いので若(もし)も本書の刊行を旧児童、学友、同族中で耳にせられたなら年来の厚志(注4)に報ゆる謝辞を述べたものとせられたい。
○児童謡は其語句に頗(すこぶる)錯簡(さっかん 注5)があるやうである。故に蒐集したる同一歌謡は悉く比較参照し厳密に一語一句を校合(きょうごう 注6)し互(たがい)に出入補欠するを訂正し以て其原作に彷彿(ほうふつ 注7)たらしめた。然れども較照(こうしょう 注8)するに足る資料乏しきは依然(いぜん)として歌意朦朧(もうろう 注9)たるを免(まぬ)かれなかつた。成人謡は出来るだけ地方独特のもののみを蒐集せんと企(くわだ)てたが或(あ)る原謡を本として該(がい)地方に改作した跡(あと)
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の歴然(注10)たるものが頗(すこぶ)る多かつた。これも其地方に恰(あたか)も原謡に酷似(こくじ 注11)せる何物かを保持してゐたのを物語るものとして棄(す)てなかつた。両者の歌謡中短句長句を問はず中に(………)とあるは或ものは此括弧(このかっこ)内の語句を略
して謡ひ、或ものは此語句を挿(はさ)みて謡つてゐるを示し、又(………)(…
……)とあるは或ものは前括弧内の語句に謡ひ、或ものは後括弧内の語
句に謡つてゐるを表して置いた。
注1.地形の起伏などの土地のありさま。
2.人の本来の性質。
3.お名前。
4.親切な心づかい。
5.文章が前後いりまじって乱れていること。
6.本文の異同を確かめること。
7.ありありと見えること。
8.くらべ、てらしあわせること。
9.かすんで、はっきりしないさま。
10.はっきりしていて、疑う余地がないさま。
11.そっくりなこと。