[解説]

蚕かひの学
上田歴史研究会 阿部勇

 信州の上田小県地域は江戸時代前期から養蚕蚕種の盛んな地でした。江戸時代後期になると、蚕種製造の一大中心地となり、関東や東北の各村に蚕種を販売しました。蚕種製造販売業者は各村を行商して歩き、顧客である村人と対面して蚕種を売るのです。毎年継続して蚕種を買ってもらうためには、信用が大切です。信用されてこその蚕種商売ともいえます。信用を得るためには、よりよい蚕種の製造とすぐれたを産出できる養蚕技術を伝えることが大切です。そこで生まれたのが養蚕書です。養蚕書を著すためには、知識と教養が必要です。
 上田市の塩尻地区は、知識と教養を持った在村文化人ともいえる蚕種商を輩出しました。塩尻では在村文化の一つとして俳諧結社がつくられ、俳句と蚕種が結びついていました。塚田与右衛門の「這ちらぬ虫の司はかな」はその一つです。秀句を詠めるような教養を持つ文化人である蚕種商は信用できるというわけです。塩尻の蚕種商人たちは、いくつもの養蚕書を刊行しました。次に三冊の養蚕書を紹介します。
・上田領上塩尻村の塚田与右衛門は、上田小県地域では最も早い養蚕書といわれる『新撰養蚕秘書』を宝暦七年(一七五七)に出版しました。この書は、改訂され版を重ねつつ明治二十七年になっても出版されました。
・同村の藤本善右衛門保右も天保十二年(一八四一)に『(こ)かひの学(まなび)』を著し、改版を重ねました。
・弘化四年(一八七四)には同村の清水金左衛門が『養蚕教弘録』を出版、明治元年(一八六八)には仏訳され、フランスで販売されました。
 
では、藤本善右衛門保右の『(こ)かひの学(まなび)』を見ましょう。
蚕種の行商で、関東から奥州の各地を歩いたときに見聞きした技術や自らが蚕種製造し品種改良した経験をもとにしたこの書は、簡素なつくりの小冊子ですが、すぐれた養蚕技術を伝えています。
・それまで多く用いられていた清涼育から、温暖育に変えることの良さ。
・除沙(じょさ)(の糞や食べ残しのが度を除く)に網を使う。
・蒸(せい)籠(ろ)によるの殺踊法。
これらが、養蚕書としてすぐれている点であるといわれています。