資金供給源の(株)第十九銀行略史

 ところで、諏訪製糸業を支えてきた第十九銀行とは、どのような歴史と特徴をもっていた銀行であり、産業界にどのような影響をもたらした銀行であったのだろう。
 第十九銀行は、1877・明治10年11月8日、上田町100番地(現、株式会社八十二銀行上田支店地籍)に開業した第十九国立銀行(資本金10万円)を前身としている銀行である。長野県では、同年8月5日および11月1日に開業した第十四国立銀行(松本町)と第二十四国立銀行(飯山町)に継ぐ3番目に誕生した国立銀行である。ちなみに、この他に1878年12月1日開業した第六十三国立銀行(松代町)および1880年1月15日開業した第117国立銀行(飯田町)と長野県では合わせて5つの国立銀行が誕生している。
 創設者は、1876年6月1日、長野県で最初の近代的金融機関となる彰真社(長野町)を開業したメンバーの中心となった早川重右衛門、阿部万五郎、黒沢鷹治郎、中山彦輔、出浦敬三、黒沢伴治郎、阿部弥惣太、前島清治郎、竹内幸四郎ら佐久地域の豪農商9人と長野町の倉石吉左衛門の計10人である。彰真社から第十九国立銀行という流れをみると、第十九銀行の前身はさらに彰真社までさかのぼることにもなる。株主構成は、士族18.0%に対して平民82.0%と平民中心の銀行になっている。
 南北佐久の豪農商が上田に銀行を設立した目的は、「該店ノ営業ハ目今貸付ヲ為スナスノミト雖トモ其ノ目的トスル所ハ生糸ノ時ニ至リ荷為替ヲ営ムニアリ」(明治11年『銀行検査官報告書さつよう撮要(さつよう)』)とのことから生糸の集散地として繁盛し「信州の横浜」といわれる上田に目を付けたことによる。創立当初から製糸金融にかかわる銀行であった。
  1883年の国立銀行条例改正により、国立銀行は開業許可の日から満20年で満期とされた。満期直前の1896年11月1日召集された臨時株主総会で私立銀行として営業を継続する決議をし、1897年3月1日から株式会社第十九銀行(資本金60万円)として新発足した(史料1の「 株式会社第十九銀行ノ略歴史」に詳述)。その後の歩みは、昭和恐慌による蚕糸業消長の中の1931・昭和6年8月1日、株式会社六十三銀行と合併し株式会社八十二銀行(資本金13,315,00円)として新たな出発をし、現在に至る履歴を刻む。