[解説]

明治2年 組合取極書
上田歴史研究会 阿部勇

 明治2年の組合取極書が残されている斎藤家は、信濃国小県郡高梨村の名主を勤めていました。高梨村は、組合取極書の末尾に記されている12カ村の中の一つであり、12カ村は小県郡内の幕府領でした。したがって、明治新政府のもとで、1868年に「伊那県」の一部となりました。のちに「中野県」を経て「長野県」となる伊那県は、小県郡の旧幕府領ほかを治めるため、旧中之条代官所を中之条局(埴科郡坂城町中之条)としました。
 小県郡内にあった旧幕府領12カ村は、現在の長和町と上田市腰越、西内、東内、生田の一部、長瀬にあたる地域です。
 高梨村の名主であった斎藤弥惣太は鹿教湯温泉の住人です。明治維新期には公務が多く、小県郡の鹿教湯温泉と埴科郡坂城町中之条の間を、徒歩で頻繁に通っています。郡をまたいでの徒歩による往復は、当時の人々にはごく普通のことだったのでしょう。しかし、現代を生きる私たちにとって、徒歩で通うとなると大へん長い距離です。
 
 この組合取極書は、明治元年10月に出された「伊那県布令書」や冠婚葬祭についての布令書などを受けて、組合村が寄合いとり定めた書です。
 高梨村では明治2年6月、この組合取極書のあとに村独自の約束ごとを付けたし、村の百姓全員が名を書き、一人一人の印を押した「組合取定小前連印張」を作成しています。他の幕府領11カ村でも同じように作成したのでしょう。
 
 組合取極書の内容は、婚礼葬式は簡素にし、できるだけ倹約しましょう、というものです。現在にも通ずる内容であり、戦後、各市町村でおこなわれた「生活改善」運動の趣旨と似ています。組合取極書の最後の「これまでも、たびたびこのような取り決めをしてきましたが、とかく古くからの習慣に従ってしまい、守られないことが多く」という部分も現在と似ています。村々での生活慣習は、皆で新たに決め事をしたからといっても、変えるのは容易ではないようです。冠婚葬祭の簡素化については、特にそうなのかもしれません。
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