赤松小三郎はこの建白書を提出するとともに、時局収拾打開策として天幕合体諸藩一和を説き、薩幕一和に着手した。しかし、当時既に薩長同盟が秘かに結ばれて、討幕論が勢力を得つつあった。
時に上田藩から帰藩の命が頻繁で、東帰に決め、薩摩藩門弟等のために一夕惜別の宴を催したという。その数日後、赤松小三郎は暗殺されたのだが、その夜、三条大橋南側擬宝珠に、斬奸状が首謀者の薩摩藩士桐野利秋らによって張り出された。遭難の様子を『赤松小三郎先生』は次のように述べている。「9月3日所用のため伏見に赴き、帰途七つ時(午前4時)東洞院魚棚(ひがしのとういんうおだな)下ル町を過ぐ、兇徒3人路傍の第八車の陰より躍り出て、不意に要撃せられた。事唐突に出でたので先生刀を抜くに遑(いとま)なく、遂に兇刃の下に斃(たお)れた。是実に慶応3年9月3日で、享年三十有七。」
参考文献
『赤松小三郎先生』(柴崎新一 信濃教育会編 信濃毎日新聞社 昭和14年)
『赤松小三郎先生』復刻版(赤松小三郎顕彰会編集・発行 平成27年)
『赤松小三郎 松平忠厚-維新変革前後 異才二人の生涯-』(上田市立博物館編集・発行 平成12年)
『赤松小三郎実録』赤松小三郎顕彰会-創立10周年記念誌-(編集代表伊東邦夫 平成25年)