母校を思ひて

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          S K 生
林学校が木曽の谷間に産声を挙げてから20歳漸く一人前の男になると云ふ歳である。昔なれば元服をすると云ふ御目出度い年である。
此の佳辰(かしん:よき日)に当って山林学校が今後如何にして社会に立つべきかを林友六百の会員と共に研究する必要があらうと思ふ。
過去の山林学校、兎に角(とにかく)中等程度の林学専門の学校として全国に否海外までも名声を博して来たことは、吾々は自惚(うぬぼ)れでもなんでもない。而し今迄の林業教育は甚だ不振で、母校を除くの外は総て農業と林業と併置の学校であって、而(しか)もそれが何れも農科の方が遙に羽振りがよく、林科なるものは存在も認められぬ程の微々たるものばかりと聞いては吾々は余りに誇張するわけにもゆかぬ。
林学校の如何(いか)なるものなるやも解せぬ人多きに至っては、吾々は寧(むし)ろ憤然たらざるを得ない。
過去の林業教育は極めて固執的で盲目的であった様に思ふ。それは教師や吾々生徒には何等罪はない。世の中の人が余りに此の方面に対して冷淡であった様に思ふ。第一学校の設備が他の実業学校に比して甚だ遜(そんしょく:おとっているようす)がある様である。吾々は奈何(いかに)しても自発的には勉強するとしても、それは実に無意味のものである。
生存竸争が次第に激しくなってくると共に、吾々は先づ第一に学校の設備を整へることが先決問題であらうと思ふ。如何にも先生が真剣に講義して聞かしても、それはの泡の如く消え去るに早い。例ヘ一時は頭の中へ這入(はい)るとしても、それはほんの一時的である。
 
  (改頁)
 
自分は卒業後満5ヶ年を経た。5ヶ年といへば長い様なものゝの流るゝ様に実に早い。吾々は今まだ社会校の1年生である。何れに向つても未だ疑問ばかりだ。然し5ヶ年はほとんど実際問題に就ての研究で印象が深い事ばかりである。
此の意味に於て山林学校は各種標本室の完備、演習地の拡張、実験室の整備は刻下(こっか:現在、目下)の急務たるは今更此処に冗言を費す必要はない。此の方面に向つて着々進歩改善を図られて居る諸先生に感謝してやまない。
今回20周年記念事業として標本室の創設も其の一部に加へられて居るといふことは、実に喜ばしいことで、此の機を利用して模範的の林業標本室を建設せられんことを望んでやまない。そして日本に二指を屈することすら出来ない母校として名実共に権威あるものにして欲しい。(大正10、4、10夜)
 
          南安曇郡烏川(からすがわ)村 農主 黒岩正平(注23)
母校創立記念会に当り痛切に感ずることは、開校当時裏山へ植栽したる扁柏(ヒノキ)も矢張20周の年輪を数へ、経営宜(よろ)しきを得て将来木曽の名木を発揮しつゝある一事なり。此の意味合に於て相互自然の間に順次愛校の生長を催し、所謂(いわゆる)充実ある天下の山林学校として弥(いや)が上にも誇らん哉(や)、以て祝詞に代ゆ。
(大正10年3月吉日)