としまひすとりぃ
平成とぴっくす

豊島の平成史を彩る様々な出来事を現場レポート

文化によるまちづくり

文化芸術創造都市への挑戦 ≪その2≫
奇跡の場所《にしすがも創造舎》の12年

東澤 昭

(平成15~18年度 文化デザイン課長 / 平成21~23年度 文化商工部長)
関連キーワード: 文化創造都市

3 走りながら考える 考える前に走り出す

ひと言でNPO法人との協働事業と言っても、それまでに前例がないことから手探りで協議を重ねることが続いたのでしたが、最大の課題は、事業内容について区とNPOがイメージを共有しながら明確化することであり、さらに役割分担をどうするかということであり、運営に要する経費をどの程度に見込み、それをどのように負担するかということでした。 区とNPOが対等の立場で協働で事業を実施するわけですから、従来のように委託契約に基づいてNPOが業務を請け負い、事業を実施するという形態はそぐわないと思われました。
事業運営をともに担う一員として、区からは「分担金」という名目で必要な経費を支払うという形が最も自然ではないかというのが、その時に私たち担当者が検討して得た結論で、その方向で準備も進めていたのでしたが、それが年明けの1月上旬になって大きく変化することになります。
上司の大沼部長から、「区として、経費を極力支出しないスキームで考えたい。その代わり、NPOには旧朝日中学校施設を無償で貸し付けることにする。そのうえで事業や施設管理に必要な経費については、稽古場運営などの自主事業で得た収入で賄ってもらう」という考え方が示されたのです。
これはそれまでの考え方を大きく方向転換するものでしたし、現実的にそんなことが可能なのかどうか、皆目見当もつかないというのが正直な感想でした。
実際、いくつかの閉校施設で区民に施設開放しているところでは、施設の維持管理に年間1千万円を超える経費を要するのに対し、使用料収入は数十万円程度という話でした。それに加えて、文化芸術の創造環境づくりというミッションを達成するために新たに人を雇用し、事業展開を図るとなればさらに多くの経費のかかることが想定されます。これに対し、経費支出を賄うだけの収入が得られるのかどうかは、大いに疑問であると言わざるを得ないように思えたのです。
しかし一方で、大沼部長が示した自主運営方式という考え方は、当時の区の財政状況を勘案したうえでの苦肉の策であるということは容易に理解できることでした。その頃の区は深刻な財政難に陥っていて、この先どうなるかも分からない文化芸術分野の新規事業に相応の予算を割く余裕などないというのが実情だったのです。そうした状況下では、この先も継続して予算が認められるという保証はなく、ここでごり押しした結果として事業化見送りという判断が出て元も子もなくなるよりは、とにかく事業化を図り、文化政策懇話会提言の実現に一歩でも近づくことが私たちには必要なことだったのです。

にしすがも創造舎(校舎内)
にしすがも創造舎(校舎内)

本事業は「文化芸術創造支援事業」という事業名で平成16(2004)年度予算の重点事業に位置付けられ、2月5日の予算内示会で説明、プレス発表されましたが、その時点では運営方式はまだ明確にはなっていませんでしたし、予算も区が直接支払うことを前提として、旧千川小学校の維持管理経費の実績を参考に光熱水費や機械警備費、火災保険料など必要最低限の経費が計上されるにとどまっていました。
しかし、備品も事務用品もなく、人件費も手当てされず、さらにはすでに老朽化が目立ち始めていた施設の補修もままならないなかで、どうやって事業を立ち上げ、施設を運営していけばよいのか、不安と懸念を払拭することは出来ませんでした。

そうしたなか、自主運営方式による事業実施について両NPOとの再協議が始まったのでしたが、NPOにとっても私たち区の担当者にとっても、どれほど無謀に思える挑戦であっても撤退するという考えはありませんでした。とりわけNPOの皆さんにとって《創造の場》を確保するということは、NPOとしての設立目的に係わる使命を達成するうえで極めて重要な手立てを手に入れることでした。どれほど厳しい条件だったとしても、少しでも可能性があるのであれば退路を断ってチャレンジするという気概が伝わってきました。
NPOと私たちの議論は、こののち締結することになる「使用貸借契約書」及び「文化芸術創造支援事業(旧朝日中学校)実施協定書」の内容に反映されることになります。
そのなかでは事業内容についても例示していますが、一概に文化芸術と言ってもその分野は幅広く、公共性、公平性の観点から、舞台芸術にとどまらず音楽や美術分野にまで対象を出来る限り広げたい行政側と、より専門性を発揮できる分野にターゲットを絞りたいというNPOの考え方はいささかすれ違ったままで、着地点を見出すのはなかなか難しかったように思います。結局その部分の協議は、施設のオープニング以降も手探りで暗中模索しながら、トライ・アンド・エラーを繰り返す中で徐々に共通認識を醸成していったというのが実情だったのです。

一方、事業開始までにはいくつか乗り越えなければならないハードルがありました。
その一つが区内部に設置された「区有財産活用推進会議」(その後設置要綱の改正、名称変更あり)で、総務部長の諮問会議に相当し、公有財産の適正で効率的な管理、運用に関して協議する会議体でした。
区有財産の貸付等を行う場合に所管部局は総務部長にあらかじめ協議する必要があるのですが、各協議案件はこの会議の審査を経て承認を得ることになっていて、旧朝日中学校跡地をNPOに貸し付ける件についてもその審査対象になっていたのです。
経理課及び財産運用課との事前協議を行ったうえで、平成16(2004)年3月30日に1回目の「区有財産活用推進会議」が開催されました。外部の委員が入らない庁内の会議体ということで軽く考えていたわけではないのですが、NPOに施設を無償貸付したうえで自主運営方式により事業を実施するという前例のない取り組みに対しては、山木仁総務部長(当時)をはじめ各委員から厳しい指摘や懸念が示されました。それらについては当然シミュレーションを行い、様々なケースを想定して検討を行っていたつもりだったのでしたが、詰め切れていない課題も多くあり、質問に的確に答えられない部分があったことから、この最初の会議で了承を得ることはできませんでした。同時に旧朝日中学校周辺の地域住民の方々と十分に調整を行うようにとの指示も出され、結論の出ないまま会議は次へと持ち越しとなってしまいました。
この結果にはもちろん落胆しましたが、それはこちらの甘さが招いたことであり、むしろそこでの質疑はケーススタディとして当然検討しておかなければならないことばかりであり、後々役に立ったことは言うまでもなく、今では感謝しかありません。
しかし、当初計画していたような平成16(2004)年度当初には事業を開始したいという目論見は修正を余儀なくされ、その後も地域での説明会の開催や区議会常任委員会(区民厚生委員会)への報告、関係団体への説明等を行いながら、上記会議も2回、3回と継続開催され、ようやく最終的に了承を得たのは7月も末になってのことでした。冒頭で紹介しましたように、その頃には施設のリニューアル・オープンの日程を8月20日に設定して準備も始めようとしていましたから、まさに綱渡りとしか言いようのない有り様でした。

さて、その区有財産活用推進会議での審査が始まろうとしていた頃のこと、同時期に統合され閉校となったいくつかの学校施設で什器備品類の斡旋が行われるという情報を職員が聞き込んできました。
閉校施設で不要となった什器備品類は、まず区立の各学校に優先的に案内され、必要なものを選別して搬出されたのち、教育委員会以外の部局にも斡旋されることになっていて、最終的にどこにも引き取られずに残ったものを廃棄処分にするという手順で作業が進められていました。私たちが斡旋の情報を耳にしたその頃にはすでに各学校の引き取りも終わっており、何カ所かの閉校施設で残された備品類を実地に検分することができるということでした。

にしすがも創造舎(校舎内)
にしすがも創造舎(校舎内)

旧朝日中学校にはもうこれといった備品はほとんど残されていないという状態でしたから、この情報に欣喜雀躍して早速何人かの職員と現地を見に行き、必要と思われる物品類のすべてに譲渡を希望する旨と所管課名を記入したシールを貼り付けていきました。それらは教室の机、椅子をはじめ、長テーブルやパイプ椅子、書棚や茶箪笥から湯呑み茶碗、鍋やかんの類いまで実に雑多なものでしたが、廃棄寸前の古びたはずのものが、実に輝いて見えたことを覚えています。
問題は相当な量に膨れあがったそれらをどうやって運ぶかということでした。もとより運搬を業者に依頼するための費用を捻出する手立てもなく、こうなったら自分たちで運び出そうということになりました。当時の文化デザイン課は課長の私を含めて6人ほどの小さな組織でしたが、NPOの人たちにも手伝いをお願いして、皆で力を合わせて作業を行うことにしました。
運搬用の車両については、荷物の積み込みが可能な自動車を保有している部局に頼み込んで借り受け、何台かに分乗した職員が現地から旧朝日中学校まで何往復も手分けしてひたすら運搬するという作業に専念しました。これは事故防止のための運転者登録制度もまだ整っておらず、車両の管理も少しばかり緩やかだった当時だからこそ出来たことで、今ではもう難しいことだったでしょうし、何とも危なっかしい仕事ぶりでした。
数日間に及んだその作業を私たちは「民族大移動」と名づけて大いに楽しんでもいたのでしたが、こうした作業を通して私たち行政の担当者とNPOの人たちとの信頼や絆も次第に深まっていったように思います。

にしすがも創造舎(校舎内)
にしすがも創造舎(校舎内)

4 地域への説明と理解~スタートへの一歩

《にしすがも創造舎》がスタートから12年にわたって創造拠点として活動を続け、わが国でもトップクラスの文化芸術作品を数多く生み出し、発信する場となることが出来た要因としては、この場所を愛した実に多様なアーティストの皆さんが積極的に関わってくれたことはもちろん、両NPOのスタッフの熱意があったことは言うまでもありませんが、何よりも地域の皆さんの理解と協力があったことを忘れてはならないでしょう。とりわけ施設周辺の方々にはご迷惑をおかけしたという場面も多々あったに違いないのですが、そうした時にも優しく助言をくださったり、温かく見守ってくださった皆さんのお気持ちに支えられての12年間だったのです。
しかし、当然ながらはじめからスムーズに理解を得ることができたというわけではありません。むしろ、旧朝日中学校を活用した本事業の説明にはじめて伺った際に感じたのは、地域の皆さんの強い拒否感のようなものでした。

前述の区有財産活用推進会議での指示もありましたが、私たちは、文化芸術創造環境を整備するための事業を旧朝日中学校の施設を拠点に展開しようと検討をはじめた当初から、地元との調整を最優先事項と考えていました。
そのため、本事業が平成16(2004)年度の重点事業に位置づけられ、議会にも説明や報告を行ったのち、地元町会である西巣鴨四丁目親交町会の中村𠀋一会長(故人)のところにご挨拶とともに説明と相談に伺ったのでした。中村会長は当時、豊島区町会連合会会長も務められ、ご多忙の中でしたが、私たちの説明にじっくり耳を傾けてくださいました。

私たちとしては、まず町会役員の皆さんに説明して一定のご理解をいただいたうえで、地元説明会を開催するという手順を考えていたのですが、中村会長からは、そういうことなら「巣鴨・西巣鴨地域街づくり協議会」が近く開催される予定なので、そこで説明すればよいのではないかという提案をいただいたのでした。
巣鴨・西巣鴨地域街づくり協議会は、豊島区街づくり推進条例及び同施行規則に規定された特定地区街づくり協議会の一つで、町会関係者だけでなく会社員、商店主、経営者、コンサルタント、学生など、当該地区の街づくりに興味と関心を持った様々な立場の人が参加していました。中村町会長としては、そうした幅広い層の人たちに話をするほうが、より広がりを持たせる意味でも適切だと考えられたのでしょう。
直近の協議会は3月12日に開催されるとのことで、当日は何人かの職員とともに出席し、何件かあった協議事項の一つとして、旧朝日中学校施設を暫定活用した文化芸術創造支援事業の実施について説明を行ったのですが、そこで待っていたのは思わぬ否定的な反応でした。
20名ほどの協議会メンバーの方々からは次々に意見や質問が出されましたが、あからさまな反対とまでは言わないまでもその大半は学校跡施設を使っての事業に疑義を表明するものでした。
その理由はいくつかあったと思うのですが、まず第一には、その日の説明だけでは事業内容そのもののイメージが不明瞭で、いきなり提案されたことに唐突感があったことであり、さらには施設の運営をNPO法人に任せるとしたことに対し、見も知らないNPOなるものが地域の中に入り込んでくることへの疑念や不安のようなものが大きかったように感じました。
それに加えてとりわけ大きな理由となっていたのが、行政への不信感だったように思います。実は街づくり協議会では、旧朝日中学校跡地の活用に関して近隣住民に広くアンケート調査を実施していて、その中では跡地を防災公園にしてほしいという意見が多かったことから、その結果をもとにした要望書を区にも提出していたとのことです。ところが結果的にその要望に沿わない形で区は2年間にわたって学校法人に貸付を行い、しかもその際の地元への説明が十分ではなかったようで不信感が募っていたのでした。そうした時に、今度は施設をNPOに貸し出して文化芸術の創造拠点にするという案を唐突に持ってこられたのでは抵抗を感じるのも無理からぬことだったに違いありません。
私たちとしてはそうした声に耳を傾けながらも事業の必要性についても何とか理解をいただくようお願いを繰り返すしかありませんでした。
巣鴨・西巣鴨地区街づくり協議会はその後、5月18日に2回目の事業説明を行い、事業開始に向けて準備を進めることについての一定の了解を得たうえで、6月16日に同協議会の西巣鴨地区分科会の代表何人かの方々と区、NPO法人の三者により、施設の利用要領や利用方法等の詳細についての事前協議を行ったのち、6月29日に3回目の会合を持ちました。
協議会での話し合いの雰囲気が明らかに変わったのはこの3回目のことだったと記憶しています。これまでは私たち区の担当だけが出席しての説明会だったのに対し、この日はNPO法人からアートネットワーク・ジャパンの市村作知雄理事長(当時)、蓮池奈緒子事務局長(当時)及び芸術家と子どもたちの堤康彦理事長も出席し、事業のより具体的な内容や実施方法について説明したのです。
行政からの説明がどうしても理念先行の堅苦しい説明に陥りがちだったのに比べて、NPOの皆さんからは具体的でかみ砕いた内容の話があり、さらに実際に顔を合わせてその人柄なりを直に確認できたことで一気に距離が近づき、親密な雰囲気まで醸し出されるようでした。

その時、一点、街づくり協議会の皆さんから重要な指摘があったことを忘れられません。それは説明の際に私たちが旧朝日中学校のことを“廃校”と表現していたことへの意見でした。これは国の文書などでも学校跡施設の活用に関する説明に使われていた用語として無意識に使用していたのでしたが、これに対し協議会メンバーの方から、「朝日中学校は今も私たち地域住民の心の中に生き続けている。決してなくなったわけではない。廃校という言葉は使わないでもらいたい」という指摘があったのです。このことは区の中でも教育委員会事務局や学校統合の担当者の間では常識的な認識だったはずですが、そのことに思いが至らなかったのでした。深くお詫びするとともに、この学校が地域の皆さんに今もなおいかに愛されているかを心に刻んだのでした。
その日の会合だったでしょうか、それまで協議会でのやり取りの様子をずっと見て来られた中村町会長が私の耳元で「もうこれで意見は出尽くしたようだし、あとはあなたたちのやりたい方向で進めてもらえばいいよ。私も区長さんの文化のまちづくりは応援してるからね」と仰ってくださったのでした。大いに力づけられたことは言うまでもありません。
中村町会長には《にしすがも創造舎》オープン後も常に温かく見守っていただきました。施設に明かりが点り、若い人たちが出入りすることで地域に活気が出たことや、NPOの人たちが施設周辺の清掃を欠かすことなく地域の人に対して明るく挨拶することなどを機会あるごとに公言され、評価してくださったことも忘れることができません。
また、街づくり協議会のメンバー、特に西巣鴨地区分科会の皆さんにはその後NPOが実施する様々なイベントにも参加いただき、助言をくださったり、協議会の場で《にしすがも創造舎》の活動報告をしてくださったりと、お心遣いをいただきました。
改めて感謝を申し上げたいと思います。

こうして街づくり協議会での説明会の後、広報としまで広く周知をしたうえで7月初旬に地元説明会を2回開催し、消防署との協議や届出を行い、さらに各関係団体との調整等を経たうえで、8月20日にようやくオープニングの日を迎えることが出来たのでした。
ただ、各種関係団体との調整に関しては、詳細は省きますが、施設の運営に対して様々なご要望をいただいていたにも関わらず、キャパシティーや受け入れ態勢の問題で十分にお応え出来なかったケースも多々あり、お詫びするしかなかったことを付記しておきたいと思います。

朝日中学校卒業記念の時計
朝日中学校卒業記念の時計

5 アクシデントからのスタート

こうしてようやくオープニングの日を迎えて以降、《にしすがも創造舎》では、両NPOが着々と事業の準備を進め、いくつかの教室ではすでに複数の劇団等が利用を開始していました。
また、私たち文化デザイン課も設置から2年目を迎え、その年、平成16(2004)年6月から東京芸術劇場や財団法人コミュニティ振興公社(現・としま未来文化財団)との連携で始まった「としま文化フォーラム」における年間15回の講演と複数の特別講演会の開催準備に追われ、さらには東池袋四丁目再開発ビルの中に整備する(仮称)東池袋交流施設(現・あうるすぽっと)の設計協議をはじめとする再開発組合との折衝や、後述する「地域再生計画」の内閣府への提出を控えるなど、様々な案件が同時進行している状態でした。
そんな時、あるアクシデントに見舞われることになります。

10月9日(土曜)の夜8時半頃のことです。区防災課の栗原章課長(当時)から私の自宅に電話が入りました。「旧朝日中学校で火災報知器が作動して、すでに豊島消防署が出動している。火事ではなく漏電のようだが、所管課として現場を確認してほしい」と言うのでした。
その日は、フィリピンの東で発生した台風22号が夕方には静岡県伊豆半島付近に上陸、三浦半島を通過して午後6時過ぎに千葉県千葉市付近に上陸した後、関東地方を縦断して行ったのです。関東縦断時には台風そのものの勢力は衰えていたものの前線と複合して大雨となり、豊島区内でも10件ほどの浸水被害をもたらしたのでした。

私が担当職員とともに《にしすがも創造舎(旧朝日中学校)》に駆けつけたのは午後9時20分頃で、消防署の人たちはちょうど引き上げた後でした。火災報知器が作動したのはやはり漏電が原因だったらしく、警備会社や火災報知器設置事業者、区防災センターの担当者も駆けつけ、応急処置を行ったとのことでした。
問題は雨漏りで、旧校舎の廊下はどこも水浸しとなり、特に2階天井のそこここからは水がしたたり続けているのでした。
アートネットワーク・ジャパンの蓮池事務局長とともに各所を見て回りましたが、両NPOが事務作業を行うスペースとなっている部屋ではパソコンや多くの書類が積み上げられた事務机に青い工事用のビニールシートが広げられ、その上に容赦なく雨降りのように水がこぼれ落ちていました。また、地階の元技術室、理科室、各準備室だった部屋はどこも5~10㎝ほど浸水している状態でした。
早速、蓮池事務局長と私たちで廊下の水を古い布や雑巾で吸い取り、バケツの中に絞っては捨てるという作業を繰り返したのでしたが、これ以上は手の施しようがないと見切りをつけたところで作業を中断し、11時過ぎに施設を後にしたのでした。その時の気持ちは言い表しようがなく、何とも絶望的な気分になったものです。
さらに翌日には、深夜にたまった雨水が原因となったらしく、芸術家と子どもたちのオフィス部分の天井が崩落したとの報告がありました。月曜日になって職員とともに現場を確認し、天井の補修工事の手配をしたのでしたが、地階の各部屋は前日のうちにNPOスタッフの皆さんが溜まった水をドライエリアに掻き出す作業を済ませてはいたものの、到底しばらくの間は使用することが出来ないと思われました。

この時の水漏れは短時間に集中した豪雨により、排水許容量をオーバーした水が外付けの廊下等から校舎内に浸水してきたものでした。さらに屋上に設置された水泳用プールも水が溢れていてそれらが流れ込んでいた可能性もありました。
施設全体の老朽化が直接的な要因ではなかったとは言え、今後同規模の台風や集中豪雨に見舞われた場合には同様の水漏れが生じることが想定されました。今回の事象を分析しながら、早速事前に土嚢等を用意することや施設利用者も含めた災害対策が話し合われたことは言うまでもありません。
それにしても、ようやく施設のオープンにこぎ着け、いよいよこれからと言う時に見舞われたアクシデントに挫けることなく、冷静にそれを跳ね返そうとするNPOの皆さんの気力には大いに励まされたのでした。

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