としまひすとりぃ
平成とぴっくす

豊島の平成史を彩る様々な出来事を現場レポート

文化によるまちづくり

文化芸術創造都市への挑戦 ≪その2≫
奇跡の場所《にしすがも創造舎》の12年

東澤 昭

(平成15~18年度 文化デザイン課長 / 平成21~23年度 文化商工部長)
関連キーワード: 文化創造都市

6 小さな一歩からの飛躍

《にしすがも創造舎》がようやくオープンにこぎつけ、いよいよこれから本格的に事業を進めようとした矢先に被った浸水被害は、まさにゼロからではなくマイナスからのスタートを余儀なくされる出来事でした。しかしそんな試練にめげることなく、ハード面、ソフト面を問わず、この施設を少しでも良いものにしようと改善を一歩一歩積み重ね、多様なアイデアを形にするための準備が着々と進められていったのです。
そうした努力が徐々に実を結び、大きな成果となって、この施設を拠点とした事業を大きく飛躍させることになるのです。

そのきっかけとなった一つが、日本を代表する演出家・蜷川幸雄氏の舞台のための稽古が《にしすがも創造舎》の体育館において行われるという知らせでした。これはその年の12月に日生劇場で上演される「ロミオとジュリエット」で、稽古期間は10月中旬から12月初旬の長期に及ぶものでした。これについてはすでに8月末に制作元のホリプロから打診があったと聞いてはいたのですが、これが実現に至ったことはまさにエポックメイキングな出来事なのでした。
さらに蜷川さんサイドから、その稽古の様子を区民の皆さんにご覧いただきましょうというお話しがあったのです。公開稽古をやろうという提案でした。広く周知して見学者を公募することは大変な混乱の生じることが予想されましたから、対象者は地域の方や地元の区立学校関係者に限定して何回かに分けて見ていただいたのですが、これもまた画期的なことでした。
これらは仮に区が直営で運営していたのでは到底為し得なかった成果と言ってよいでしょう。施設をオープンしたからと言ってすぐに借り手がつくはずはなく、これらはいわばNPO法人アートネットワーク・ジャパンの舞台芸術の世界におけるネットワークや情報発信の力をまざまざと示すものでした。
「世界のニナガワ」が閉校施設の体育館で、大劇場のセットを模した舞台装置を背景に稽古をする様子は、新聞でも写真付きで大きく報道され、話題となりました。これにより《にしすがも創造舎》の存在が演劇関係者のみならず広く一般にも知られることになったのでした。
さらに重要なのは、体育館で大規模な商業演劇等の稽古場として利用してもらうことで一定の収益を確保したうえで、旧校舎の教室等で行われる新進あるいは中堅の劇団・ダンスカンパニーの使用料を低廉に抑えてその活動を支援するという、言わば「ビジネス・モデル」の形が見えてきたということでした。
こうした施設運営上の収支の見通しが立ったことで、アートネットワーク・ジャパンが目指す創造・発信のための芸術環境づくりや、芸術家と子どもたちが取り組む、子どもたちが気軽にアートに触れることの出来る場づくりやワークショップの実施など、様々な事業展開の可能性が大きく広がっていったのです。

さらにもう一つ、どうにかこうにか頼りなく船出した《にしすがも創造舎》の航路をより確かなものにしたのが、NPO法人芸術家と子どもたちが地域住民参加型アートプロジェクト「ACTION!」の一つとして企画制作した、現代美術家・岩井茂昭氏と子どもたちによる映像製作プロジェクト「検証すがも愛~ハヤフサ・ヒデトをさがして」の成功です。
これは旧朝日中学校が立地する場所に戦前の一時期存在した大都映画巣鴨撮影所を代表するスター「ハヤフサ・ヒデト」の存在を通して、西巣鴨周辺の土地の記憶とそこに住む人々の時間のつながりを新たに探ろうとする取り組みでした。

蜷川幸雄氏演出「ロミオとジュリエット」稽古風景
蜷川幸雄氏演出「ロミオとジュリエット」稽古風景
(写真提供:株式会社ホリプロ)

周知のようにこの場所は、大正8(1919)年に「天然色活動写真株式会社」が巣鴨撮影所として開設したものでしたが、経営基盤の脆弱さから、その後次々と「国際活映」、「帝国キネマ」といった映画会社によって買収、売却を繰り返したのち、昭和3(1928)年に、当時土木・建築業界の実力者で東京府会議員でもあった河合徳三郎氏がその前年に発足させたばかりの「河合映画製作社」が手に入れたのでした。その河合映画製作社を発展的に解消して、昭和8(1933)年に新たに設立されたのが「大都映画株式会社」でした。
大都映画は低予算で大衆向けの娯楽作品を大量に製作、直営館、系列館を全国に拡大しながら安価な入場料で大人気を博し、当時の大手映画会社に対抗したのでした。しかしその後、昭和17(1942)年、第二次世界大戦下の戦時企業統合令による新興キネマ及び日活の製作部門との三社合併で「大日本映画製作株式会社(大映)」として統合され、大都映画は河合映画以来通算15年の歴史を閉じ、巣鴨撮影所もまた閉鎖されることになるのです。
その15年間での映画製作本数は通算1,325本に及び、とりわけ大都映画になってからの年間製作本数は大手映画会社を凌いで断然トップの座を維持したと言われています。
その大都映画からは多くのスター俳優が輩出されていますが、なかでも冒険活劇物に多数出演し、当時の子どもたち憧れのスターとして大人気だったのが、ハヤフサ・ヒデトなのです。

「大都映画巣鴨撮影所」跡地銘板
「大都映画巣鴨撮影所」跡地銘板

映像製作プロジェクト「検証すがも愛~ハヤフサ・ヒデトをさがして」は、平成16(2004)年9月から翌年2月まで、延べ約650人の参加を得たプロジェクトでした。
まず、地域の高齢者の中からハヤフサや大都映画撮影所についての記憶を持つ人を探すため、地域2カ所にある高齢者福祉施設「ことぶきの家」で、大都映画時代のハヤフサ主演映画で唯一現存する映画『争闘阿修羅街』をビデオ上映し、参加者にインタビューを行ったほか、近隣3カ所の児童館では、スライドを使ったハヤフサについてのお話会や、『争闘阿修羅街』」のビデオ上映を行い、現代の子どもたちの目にハヤフサがどのように映るのかリサーチを行いました。
続けて、10月には西巣鴨小学校4年生児童を対象に『争闘阿修羅街』を題材としたワークショップ型授業を3回にわたって実施、さらに地域住民やハヤフサ関係者を次々と訪ねては個別インタビューを重ね、その過程でハヤフサの直弟子で当時付き人兼助監督などを務めた池田督氏に出会うとともに、最終的にはハヤフサの娘さんやお孫さんにまでたどり着くことが出来たのでした。
さらに、「よみがえる『ハヤフサ伝説』~戦前のヒーロー、ハヤフサ・ヒデトの謎を解け!~」という呼びかけのもと集まった子どもたち6名とワーキング・グループの有志メンバーで「ハヤフサ・ヒデト調査団」を結成し、10月から11月の約1カ月をかけて、ハヤフサ・ヒデトという人間の謎にせまっていきました。
調査団では、国立近代美術館フィルムセンターに赴き、研究員にハヤフサや大都映画についての話を聞いたり、日本橋にあるハヤフサが映画の中で跳んだビルを探したり、京橋図書館地域資料室ではハヤフサが空中滑走した橋について調査を行いました。
また、埼玉県にお住まいのハヤフサのご遺族を訪ねてお話しを伺ったり、ハヤフサが眠るお寺でお墓参りをしたりしながら、それまでの調査や資料によって分かってきたことをもとに、ハヤフサの人物像や彼を取り巻く伝説について考察を深めていったのです。
加えてこのプロジェクトの最中、11月7日には《にしすがも創造舎》において「ハヤフサ・ヒデト生誕100年記念パーティー」が開かれました。
ハヤフサ・ヒデトは明治37(1904)年11月7日生まれで、2004年は奇しくもハヤフサ生誕100年にあたる年だったのです。ハヤフサがその人生の華やかな時期を送ったこの大都映画撮影所の地で彼の生誕を祝うこのささやかなパーティーには、地域住民、新旧の大都映画ファン、大都映画関係者などが集まり、往事の彼の姿を偲んだのでした。
こうしたプロジェクトの過程のすべてはワーキング・グループメンバーの手によってビデオに収められ、映像作品「検証すがも愛~ハヤフサ・ヒデトをさがして」となって結実したのです。

ここで付記しておきますと、このワーキング・グループのメンバーは、プロジェクトに興味を持った一般有志の方々6名で、芸術家と子どもたちによるオリエンテーションののち参加し、徹底的にプログラムの現場に立会い、ビデオ撮影、リサーチ、インタビュー、子どもワークショップの企画・運営サポート、小冊子「ハヤフサ・プロジェクト2004-2005」の編集などに携わりました。
芸術家と子どもたちがその後も様々に展開するプロジェクトはこうしたワーキング・グループの参加が特徴の一つでもあるのですが、それぞれの関心分野、得意分野を生かしながらのメンバーの参加が、プロジェクトにより一層の広がりと深みをもたらしながら支えているのです。

そしてついに平成17(2005)年2月5日(土)、このプロジェクトの集大成としての「にしすがも活動写真館」が《にしすがも創造舎》の体育館で開催されたのでした。
この日は、ハヤフサ作品『争闘阿修羅街』を弁士付きで上映するとともに「検証すがも愛~ハヤフサ・ヒデトをさがして」が同時上映されました。さらに岩井成昭氏からはプロジェクトの説明や作品に登場するハヤフサ・ヒデト調査団のメンバーや地域の皆さんが紹介されました。
ちょうどその日、日本経済新聞朝刊の文化欄に岩井成昭氏がこのプロジェクトについて寄稿した文章が大きく掲載されたこともあり、会場となった体育館には区内外から溢れんばかりの人々が集まり、大変な熱気に満たされたものとなりました。
その閉会後、まだ興奮冷めやらないまま片付け作業を始めたところで巣鴨・西巣鴨地域街づくり協議会のメンバーの方から声をかけられ、「こういった取り組みこそ、私たち地域の人間がやらなければいけないことでしたね」と仰っていただいたのでした。
不安のままに船出した《にしすがも創造舎》の成功を確信した瞬間でした。それとともに、私たちを励まし、背中を強く押してくれるような地域の方の言葉にとても感激したことを覚えています。

検証すがも愛ハヤフサ・ヒデトを探して
「検証すがも愛~ハヤフサ・ヒデトを探して」
(平成17年2月5日)

さて、このハヤフサ・プロジェクトと同時並行で芸術家と子どもたちが実施したのが、年末の「巨大クリスマス・ツリーを飾ろう」で、クリスマス・ツリーの飾り付けであるオーナメント作りを行うワークショップでした。
また、3月30日には、子どもとつくる舞台「踊る!すがも地蔵通り!!」の発表会が体育館を会場として開催されました。
これは小学生の子どもたち17人と振付家・伊藤多恵氏がワークショップを重ねて一緒に作り上げた作品で、巣鴨地蔵通りを行き交う人々を観察したりインタビューしたりしてイメージを膨らませ、それをダンスで表現した舞台でした。
同日、会場の《にしすがも創造舎》では、地元町会等の協力によるお花見カフェや夜桜パーティーも開かれ、多くの人で賑わいました。
さらに、2月24日から28日までの5日間、アートネットワーク・ジャパンが主催する「東京国際芸術祭2005」の一環として、演劇上演プロジェクトVOL.0「昏睡」が体育館を仮設の劇場として上演されました。それまで稽古場として利用されてきた体育館を公演の場として活用する試みのスタートでした。
その後、この演劇上演プロジェクトはVOL.5まで継続され、平成19(2007)年以降は、「子どもに見せたい舞台」や「フェスティバル/トーキョー」の舞台上演へと発展していくことになります。

このように施設オープンの8月から年度末までのわずか7か月ほどの間に、創造環境づくりから各種ワークショップの発表や本格的な舞台上演を行う発信活動、さらには子どもたちとアートが出会う場の提供や地域住民をはじめ様々な人々が出会う交流の場づくりなど、その後《にしすがも創造舎》がよりパワーアップして活発に展開することになるプロジェクトの数々がくっきりとした輪郭とともに姿を現してきたのでした。

子どもとつくる舞台vol.3踊るすがも地蔵通り
子どもとつくる舞台vol.3
『踊る!すがも地蔵通り!!』(平成17年3月30日)

7 内閣府「地域再生計画」に位置づける

両NPO法人によるプロジェクトが次々と形になり成果を上げ始めているなか、私たち担当部局が取り組んだのが、内閣府が進める「地域再生計画」にこの《にしすがも創造舎》を位置づけるということでした。
その前段となる経緯を少し書いておきますと、その年の1月に豊島区文化政策懇話会から「豊島区の文化政策に関する提言」が豊島区長に提出されたのですが、その副題が「としま文化特区の実現に向けて」であり、提言の基本方針では、「文化が牽引する都市の再生~ユニバーサルデザインを基調とする文化都市」と「文化特区~文化クラスターによる創造的なまちづくりへの挑戦」が主要項目として掲げられていました。
これを踏まえ、2月5日に公表された平成16(2004)年度豊島区予算案では、「ユニバーサルデザイン都市の創造」をキーワードに、「文化」「都市再生」「治安対策」を柱とする重点施策がまとめられ、「豊島区の地域全体を『文化特区』として位置づけ、豊島区独自の文化の仕組みと環境づくりを図ります」と強調されていたのです。
この「文化特区」は、あくまで豊島区独自の取り組みであり、必ずしも国が進める構造改革特区と関連づけることを企図したものではないのですが、区議会の予算審議の中ではその関係を問う質疑があり、さらに構造改革特区と関係ないのであれば単なる言葉遊びではないかという厳しい意見もあったのでした。
これを受け、高野区長からの指示もあって、私たち担当部局では豊島区の文化政策の構造改革特区への位置づけを模索し始めたのです。
構造改革特区とは、地方公共団体や民間事業者等、地域からの提案を受け、地域限定で規制(法律、政令、省令、通達等)の特例措置(規制緩和項目)を設けることにより、規制を改革し、一定期間後に行う個々の提案についての十分な評価を通じて、全国的な構造改革につなげることを目的とした政策手段です。
ところが、文化事業や施策において特例措置が必要な法律上の規制があるかと言われれば、そんなものは見当たらないというのが実情でした。要は地方公共団体である区がちゃんと予算をつけ、自ら工夫して取り組めばよいだけの話なのでした。
そこで行き詰まってしまったのですが、そんな時に目にしたのが、構造改革特区と同様に内閣官房が所管して進めていた「地域再生」でした。
地域再生は、地域社会の活性化を図るための取り組みとして、規制緩和や制度の改善、補助対象施設の有効活用を進める国の方策であり、地域の特性を踏まえ、地域住民の主体的な取り組みなどの支援を通じて持続可能な地域再生を実現しようとするものです。
構造改革特区と異なる特長は、支援措置が地域限定か全国措置かを問わないこと、規制の特例措置を設ける規制改革以外の補助金等改革、権限委譲、民間開放が対象となること、全国的な構造改革ではなく、地域経済の活性化と地域雇用の創出という目標を達成するものであることなどでした。
とりわけ、補助金等の統合、採択要件、基準等の要件改善ならびに公共施設の利用手続きの容易・簡素化、既存施設を再生・有効活用する場合の阻害要因の除去などが対象分野として例示されていましたが、これが旧朝日中学校の文化創造拠点への転用に活用出来るのではないかとすぐさま思い至ったのでした。
実は、旧朝日中学校はこれまで校舎の改修や大規模改造などの際に国から1500万円を超える補助金を受けていて、学校跡施設を学校以外のものに転用する場合にはこれを返納する必要があり、そのことが課題の一つになっていたのです。それが地域再生計画として国の認定を受けることで円滑な転用につながる道筋が見えてきたのでした。

地域再生計画の作成にあたっては、「地域再生推進のためのプログラム」に基づき、地方公共団体や民間団体等からの提案を踏まえて国が決定した支援措置のメニューの中から必要なものを選んだうえで、その支援措置を活用して地域の活性化を図る意義や目標、目標達成のための具体的取り組み等を書き込むことになります。さらに地域の課題認識とともに、豊島区の将来像や、当該地域再生計画に盛り込んだ取り組みが地域に及ぼす経済的社会的効果等を詳細に記述することが求められていました。
初回の申請に向け、支援メニューの中から、「補助金で整備された公立学校の廃校校舎等の転用の弾力化」と「映画ロケ、イベント等及びカーレースに伴う道路使用許可の円滑化」の2つを選択することとし、早速、地域再生計画「文化芸術創造都市の形成」の作成に取りかかったのでした。
計画作成はその8月に人事異動で文化デザイン課に配属されたばかりの樋口友久係長(当時)に担当してもらい、分担して文案を作成しながら、それを小野温代区民部長(当時)が厳しくチェックするという手順で行いました。
9月7日に地域再生計画の認定申請意向調査に対して計画概要を回答、9月16日に内閣官房地域再生推進室担当者との事前相談を行い、10月15日に計画認定申請というかなりタイトなスケジュールでしたが、何とか間に合わせることが出来たのでした。
そして12月1日に認定内定の連絡があり、12月8日の授与式において、小泉純一郎内閣総理大臣(当時)から高野区長に直接認定証が手渡されたのでした。
計画の認定がそのまま《にしすがも創造舎》の成功を約束するものでないことはもちろんなのですが、少なくとも文化芸術創造拠点づくりという事業の考え方を詳細に記載した計画が国の認定を受けたことで区内外での認知度も高まり、力強く励まされたようで、大きな達成感を感じたのは確かでした。

さらにこの翌年、平成17(2005)年4月1日に地域再生法が公布・施行され、豊島区からはこの法に基づく地域再生計画として、「文化芸術創造都市の形成『としまアートキャンバス』計画」を5月18日に申請し、7月19日に内閣総理大臣認定を受けることになります。
地域再生制度は必要に応じて他の支援メニューを追加して申請できる仕組みとなっているのですが、この時は「文化芸術による創造のまち支援事業の活用」と「地域再生に資するNPO等の活動支援」という2つの支援措置を加えた計画を認定申請したのです。
この支援措置の認定が何より嬉しかったのは、それぞれ文化庁や内閣府からの補助金が紐付いていたことで、合わせて700万円ほどの助成を受けることができたのでした。
これにより商店街や公園、児童遊園など多くの人々が集まる場所でのアートプログラムによる様々な交流事業、《にしすがも創造舎》の校庭を使った緑化&野菜づくりを通じてのコミュニケーションの場づくり、校舎内にオープンしたコミュティカフェでの各種イベントやワークショップの開催、さらには区民と文化芸術の橋渡し役となる文化ボランティア育成事業など、多彩な事業展開が可能となったのです。
こうした活動により、文化創造発信拠点として、さらには多世代にわたる多くの人々が交流する場としての《にしすがも創造舎》は大きく飛躍していったのでした。

余談になりますが、豊島区が初めて地域再生計画の認定を受けたすぐ後に、当時内閣官房の企画官だった岡本信一氏からお話しをいただき、平成17(2005)年1月6日に豊島区の全管理職と区議会議員の皆さんを対象として、構造改革特区と地域再生に関する研修を行いました。
岡本氏は全国各地の地域再生を支援する仕事をされていて、地域再生の目的や仕組み、全国の事例紹介とともに豊島区が申請し、認定された計画の意義などについてお話しをしていただきました。それまでにも議会等では私たち担当者から報告・説明は行っていたのでしたが、全国的な視野からの講義で地域再生計画への理解をより深めていただけたのではないかと思います。
その日のうちに岡本氏は《にしすがも創造舎》を訪れ視察をされたのでしたが、これを契機として岡本氏はその後も機会あるごとにこの場所に足を運ばれ、その都度有益な情報提供や助言等をいただくことになるのです。
岡本氏自身、《にしすがも創造舎》は自分にとって地域再生の一丁目一番地であると公言されている方ですが、文化庁月報への寄稿や各地での講演の際に大きく取り上げるなど、豊島区の閉校施設を活用した創造拠点づくりを全国の文化芸術関係者に広く紹介することに尽力してくださったのでした。

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