としまひすとりぃ
平成とぴっくす

豊島の平成史を彩る様々な出来事を現場レポート

文化によるまちづくり

文化芸術創造都市への挑戦 ≪その2≫
奇跡の場所《にしすがも創造舎》の12年

東澤 昭

(平成15~18年度 文化デザイン課長 / 平成21~23年度 文化商工部長)
関連キーワード: 文化創造都市

8 世界のニナガワとの出会い

ここで演出家・蜷川幸雄氏(平成28(2016)年5月12日逝去)のことに触れておきたいと思います。蜷川氏こそは、《にしすがも創造舎》がスタートしたばかりの時期に力強く方向づけを行い、その成長を促してくれた方だったのです。

蜷川幸雄といえば、演出家として日本で最も名の知られた存在であり、世界各地の舞台芸術フェスティバルでもその演出作品は絶賛を博していました。その蜷川氏が演出する舞台「ロミオとジュリエット」の稽古のために《にしすがも創造舎》の体育館を使うというニュースが大きなインパクトを私たちにもたらしたことは先述のとおりです。
私が直に話を伺う機会を持ったのもちょうどその頃で、体育館でその舞台稽古が行われていた時のことでした。
繰り返しになりますが、普通なら広く周知することはもとより、一般公開などとんでもないはずの稽古場の様子を地域の人々にオープンにすることを氏は認めてくれたのです。そのことは、閉校施設をアートセンターに転用するというプロジェクトを始めたばかりの《にしすがも創造舎》の活動を大きく後押ししてくれるものとなったのです。

そのお礼も兼ねて表敬訪問した高野区長に随行する形で陪席したのでしたが、私たちが到着した時、蜷川さんは若いスタッフたちと一緒に、その数日前から降り続いた雨のために泥濘んだ校庭に砂利石を埋めるという作業に嬉々としながら勤しんでいました。
活気あるその様子を見て、蜷川氏もまたこの場所をこよなく愛する同じ「旅の仲間」だと実感したことを覚えています。
その時、どういう話の成り行きだったか、その頃豊島区が東京芸術劇場と共同で開催していた「としま文化フォーラム」の特別講演会で建築家の安藤忠雄氏に登壇してもらうことになっているという話題になったのです。
それに蜷川さんはすぐさま反応し、「私も安藤さんと同じように学歴がないなかで戦ってきたので、アカデミズムに抗して頑張っている彼にはとてもシンパシーを感じているんですよ。私も豊島区の文化のために、できることは何でもやりますよ」と仰ったのです。
その飾り気のないストレートな言葉は率直で、とても魅力に満ちたものでした。

その翌年にも、蜷川氏は井上ひさし作の「天保十二年のシェイクスピア」の稽古の際に地域住民のための公開に応じてくれました。
稽古という作品の生成過程では、俳優も演出家も普段は見せられない姿を晒すことになります。その現場を一般に公開するためには、出演している俳優さんが所属する各プロダクションに了解を得なければならず、その根回しには相当な労力を割かなければならなかったはずです。事実、見学者を入れての稽古場では俳優たちがあまりみっともない姿を見せないよう蜷川さんが相当に気を遣っていらっしゃるのが明らかでした。タイトな稽古スケジュールに相当影響したのではないかと心配になったほどです。
そうした手数をかけてまで公開に応じてくれたのは、地域に愛されてきた中学校の跡をアートの拠点として転用したこの場所の大切さを蜷川さんはじめ多くのスタッフの皆さんが十分に理解してくれていたからに違いありません。地域の人たちの記憶の残っているこの場所でどんなことが行われているのかを出来るだけ知ってもらった方が良い、地域との結びつきを強めるべきだという考えを蜷川さんはお持ちだったように思います。

稽古中はもちろん、のちにここで公演を行うようになってからも、蜷川さんは毎日《にしすがも創造舎》に通っていらっしゃったそうですが、私も仕事でここを訪れたとき、近くのコンビニエンスストアからビニール袋を下げた蜷川さんが稽古場までぶらぶらと散策しているのを何度も見かけたことがあります。あ、世界のニナガワが歩いている、と思ったものです。また、校庭では、映画やドラマで見て誰もが知っているような俳優さんたちが稽古の合間に殺陣の練習をしていたり、サッカーに興じていたりするのを見かけました。地域の皆さんにとっても、いつしかそうした光景は見慣れた風物詩となっていたように思います。
そしてそれは、かつてここに大都映画の撮影所があった時代にも、キネマの俳優たちが行き来し、たむろする姿を当時の子どもたちが見ていた、そんな光景とどこか通じているように感じるのでした。

さて、そんな時、ちょうど「天保十二年のシェイクスピア」の稽古が行われていた平成17(2005)年8月初旬だったと思います。蜷川氏サイドから、稽古だけでなく、この体育館で上演をしたいという申し出があったのです。
具体的な演目もすでに決まっていて、コロンビアのノーベル賞作家、ガルシア・マルケスの小説「エレンディラ」を原作に翻案、舞台化した作品で、翌平成18(2006)年の秋に長期間公演を行うという企画でした。
あまりに魅力的な提案でそれを聞いた時には思わず目を瞠ったものですが、現状の体育館で長期の公演を行うことは不可能と言わざるを得ませんでした。しかしこれを何とかして実現したいというのは、NPOの皆さんはもちろん、私たち区の担当者も同じ思いでした。
この時から、「体育館を劇場に!」というプロジェクトがスタートしたのです。

9 体育館を劇場に!プロジェクト

蜷川幸雄氏から長期公演のお話しをいただく以前から《にしすがも創造舎》では、体育館を稽古場としてだけではなく舞台芸術発信の場所とするための取り組みがアートネットワーク・ジャパン及び外部の技術スタッフによってこつこつと進められていました。
例えば、夏や冬の季節にも利用しやすくするために空調設備を取り付けたり、天井や壁などの内装を黒く塗って劇場らしくしたり、照明・音響機材等を徐々に充実させたりという努力をアートネットワーク・ジャパンでは資金を自ら調達しながら少しずつ出来るところから行っていたのです。
これにより短期間の公演であれば、保健所や消防署に仮設興行の届け出を行い許可を得ることで可能になっていました。しかしそれでは同月内に上演可能な日数が制限されるなど、恒常的な演劇公演の実施は不可能でした。そのためには法的にも設備的にも諸条件を整えることが何としても必要なのでした。
蜷川氏サイドから長期公演の提案があってからすぐ、8月の中旬にはアートネットワーク・ジャパンと文化デザイン課及び関係部局の職員も参加しての話し合いがもたれたと記憶しています。まず課題の抽出作業を行ったのですが、当然ながらそこには乗り越えなければならない問題が壁となって立ちはだかっていました。

にしすがも創造舎体育館
にしすがも創造舎体育館

体育館を長期公演可能な施設とするためには、大きな課題が二つありました。
第1点目が最大の課題で、建築基準法上の建築規制の問題でした。旧朝日中学校の敷地は、商業地域、第1種住居地域、第1種中高層住居専用地域の3つの用途地域に区分されていて、過半を占めるのは第1種中高層住居専用地域であり、そこに学校以外の集会機能を持った施設を整備することは法的に出来なかったのです。
第2点目の課題は資金面の問題でした。体育館を劇場機能を持った施設にするためには建築基準法をはじめとする法令に則って改修工事を施すことが求められます。その費用は数千万円と見込まれたのですが、それをどのように調達するかが問題でした。区がその経費を予算化できれば話しは早いのですが、当時の区の財政状況からも、中学校跡施設をNPOに無償貸付をした経緯からもそれは困難でした。そうなると残る手段としては、NPOが金融機関から融資を受けるということが考えられますが、借り入れ可能なところからはすでに体育館の空調設備等の設置のために融資を受けており、その時点でそれ以上借り入れ可能な金融機関はなかったというのが実情でした。
いくつもの課題がある中で、とりわけこの2点は解決することが必須の条件でしたが、これを乗り越えることが出来たのはひとえに多くの人の理解と支援、力添えがあったからにほかなりません。

まず1点目の用途地域の問題については、文化デザイン課の樋口友久係長(当時)が区の建築審査課の担当者のところに日参し、何とか打開する方法はないかと繰り返し相談するなかで、一つのアイデアが浮かび上がって来たのでした。
それは旧朝日中学校の敷地を校舎部分と体育館の立地する部分に分割するというアイデアでした。これによって体育館敷地の用途地域を商業地域が過半を占めるようにすることで、集会施設や劇場の設置が可能になるのです。そのうえで分割した敷地のそれぞれについて、校舎部分は一つのNPO、体育館部分についてはもう一方のNPOと個別に使用貸借契約を結ぶという考え方でした。
これはまさに職員同士の粘り強い連携と工夫によって生み出された逆転ホームランのような発想であったと思います。
その後の庁内の公有財産の運用を協議する会議でも、委員から懸念が示されるなか、建築審査課の職員に専門的見地から意見をもらうことで何とか了承を得ることが出来たのでした。

その一方、劇場化のための資金調達についてはなかなか打開策を見いだせないまま時間ばかりが過ぎていったのでしたが、11月に入った頃、政府系の金融機関である日本政策投資銀行(当時は民営化前)の担当者が文化デザイン課と《にしすがも創造舎》を訪ねていらっしゃったのです。首都圏企画室の松井伸二課長と遠藤健調査役のお二人でした。
それはアートネットワーク・ジャパンが体育館改修のための資金繰りに苦労しているということを聞き及んだ内閣官房の岡本企画官が仲介する形で声がけをしたとのことで、それを受けての現場視察のための訪問なのでした。
その後、そのお二人とアートネットワーク・ジャパンの市村理事長、蓮池事務局長、そして文化デザイン課の私とで、日本政策投資銀行からNPO法人への融資に関する協議の場を持ったのが11月10日のことでした。
その場では様々な課題が話し合われたのでしたが、特にアートネットワーク・ジャパンからは、NPOの資金繰りの現状について次のような説明がありました。
東京国際芸術祭のような規模の大きい事業の開催後、文化庁等から助成金の入金されるのが実際には翌年度にずれ込むことが多く、その間の運転資金が不足しがちである。また、NPOの事業は公的機関からの助成金や共催負担金収入によって成り立っているが、助成金等の受給が減少すると、人件費を賄えないなど赤字になる構造となっているといったことでした。
これについて何点かの質疑とともに日本政策投資銀行から提案がありました。
まず、NPO法人への融資は日本政策投資銀行にとって初めてのケースである。今後、様々な団体からの要望が想定されるため、国の地域再生計画での認定、区との協働関係を条件としたい。そのため地域再生計画について、支援措置「日本政策投資銀行の低利融資等」を盛り込んだ変更申請を行うことが提案されたのです。
さらに、融資にあたって、現状1年ごとの更新となっている豊島区とNPOとの使用貸借契約を複数年契約に変更できないか。実際の融資の際は、日本政策投資銀行と地元金融機関等が50%ずつの協調融資を行うことになる。そのために地元金融機関の紹介は可能か。また、融資を受けたアートネットワーク・ジャパンが仮に破綻した場合に体育館に設置した設備を区が買い取り弁済に充てる等の措置が取れないか。NPOの資金繰りや収支構造を改善するために地域再生計画における《にしすがも創造舎》の位置づけを踏まえ、豊島区から何らかの支援が出来ないか等の質疑があったのでした。
地域再生計画の追加申請のように、直ちに取りかかることの可能な項目もありましたが、その場では結論の出ない事項も多く、区内部での検討を要するため時間がほしいと申し出をし、また改めて協議を行うこととなりました。

少し時間を置いたというのには他に理由もあってのことで、本稿のテーマから少し離れてしまいますが、その当時の私たち文化デザイン課の業務が相当に立て込んでとても余裕がなかったからでした。
その頃、私たちの目の前にあった最大の課題は11月23日に予定されていた「文化創造都市宣言」の記念式典の準備を進め、いかに滞りなく開催するかということでした。
この都市宣言は文化デザイン課が設置されたその2年前から区長に指示されていたミッションで、この年になってようやく宣言文の起草が終わり、平成17(2005)年第三回区議会定例会に議案として提出、9月22日の本会議初日に全会一致の決議を得たものでした。
この文化創造都市宣言を区内外に広くお披露目するという意味合いもあって、記念式典はかつてない規模での実施が望まれていたのです。
豊島公会堂での記念式典に合わせ、当日は池袋西口公園野外ステージにおいても区内の複数の吹奏楽団や多くの音楽バンドの演奏会が同時進行で行われることになりました。
また、記念式典そのものも、交流都市の首長をはじめとする多くの来賓を迎え、さらに豊島区で初めてとなる文化功労団体の表彰式や豊島区管弦楽団の演奏、野村萬・野村万蔵両師による狂言、河合隼雄文化庁長官を招いての特別講演など、実に3時間半の長尺に及ぶものとなり、会場の豊島公会堂は立ち見のお客様も出て文字どおり溢れかえるような様相でした。その舞台転換や進行を円滑に進めるためにアートネットワーク・ジャパンのスタッフの果たした役割が大きかったことをここで付記しておきたいと思います。
そうした式典の開催準備の一方、文化デザイン課では「としま文化フォーラム」の開催や(仮称)東池袋交流施設(現・あうるすぽっと)の開設準備、年明けの議会に提出する文化芸術振興条例の条文案作成などいくつもの業務を同時並行で行っており、そのため式典開催までの1か月以上もの間、職員は全員が毎日終電車やタクシーで帰宅するような有り様でした。課長である私のマネジメント不足は否めず、まさに課は組織として逼迫して限界を超えつつあったのです。
時間がほしいと申し出たのは、とにかく記念式典を無事に終えたうえで態勢を整える必要があったからでした。

さて、その間、日本政策投資銀行の松井課長と遠藤調査役は、銀行内で融資の承認を得るため、アートネットワーク・ジャパンと《にしすがも創造舎》の有用性と事業の将来性等を明らかにするための調査を行っていました。
それは実に徹底したものでした。日本政策投資銀行にとってNPOへの融資が初めての案件であり、大チャレンジだったという事情もあるでしょうが、通常は数百億円規模の融資が当たり前の彼らがわずか3千万円の融資にここまで徹底した調査を行うのかと驚いたものです。
都内に稽古場やスタジオがいくつあるのか、天井高のある稽古場はいくつあるのか、駅からの立地条件はどうか、需要はどれほどあるのか等について都内の関係先をくまなく調査して行ったと後になって聞きました。私の知り合いの稽古場運営会社や劇場関係者からも「うちに銀行からヒアリングに来たよ」と耳にしたものですが、その徹底した仕事ぶりは見習わなければいけないと大いに刺激を受けると同時に叱咤激励されるような気持ちになったものです。
後日、お二人は自分たちを「日本で一番演劇に詳しい金融マン」であると冗談交じりに自負していましたが、それは誇張ではなくまさにその通りなのでした。

そうした経過を経て、その次に協議の場を持ったのは11月30日のことでした。
すでに地域再生計画の追加申請を行うことや、NPOとの使用貸借契約を5年間の複数年契約にすることは方針として決まっていましたが、融資を決定するための「最後の切り札」が一枚足りないという状況でした。区として何らかの支援措置が求められたのですが、それを模索するうちに時間ばかりが過ぎて行きました。
私としては追い詰められたような思いで、公有財産の活用会議でお世話になっていた山木総務部長のところに何度かお邪魔して相談に乗ってもらっていたのですが、ある日、部長が「商工部の齋藤賢治部長がNPOへの融資に関心を持って研究しているようだから一度相談に行ったらどうか」というアドバイスをしてくれたのです。
藁にもすがる思いで商工部生活産業課の川地雅文課長に連絡をし、日程調整のうえ、日本政策投資銀行のお二人と一緒に齋藤部長のもとを訪ねたのは12月13日のことでした。
私たちからの説明の後、齋藤部長から提示されたのが、NPOが万が一破綻した場合にその損失の一部を区が補償するという考えでした。
商工部ではしばらく前から、中小企業への融資に関して信用保証協会が行っている、融資先の企業が破綻した場合の金融機関への代理弁済の仕組みをNPOにも適用できないかという問題意識のもと、区内の金融機関と一緒に調査研究を行っていたということでした。
もしその損失補償が実現したら今回の融資の決定打になると、思わず日本政策投資銀行の二人と顔を見合わせたものです。
こうして齋藤商工部長と川地生活産業課長の迅速な対応により、平成18(2006)年度豊島区予算案に、「にしすがも創造舎を運営するNPO法人が、体育館を舞台芸術等の上演が可能な施設に改修するために必要な経費について、地元金融機関等からの融資を充てられるよう金融面での支援を行う」として、2千万円を上限とした債務負担行為が計上されたのでした。
年明けの1月27日、商工部長の仲介によってアートネットワーク・ジャパンの市村理事長、蓮池事務局長と私たちは巣鴨信用金庫本店に赴き、《にしすがも創造舎》の事業概要と体育館改修工事の説明を行うとともに融資に関する要望を行うことが出来ました。こうして巣鴨信用金庫と日本政策銀行との協調融資の実施が確かなものとなったのです。
この間の商工部の齋藤部長と川地課長のお力添え、さり気なくアドバイスをくださった山木総務部長には感謝の言葉しかありません。

その後の調整や紆余曲折はあまりに煩瑣でもありますので説明は割愛しますが、年度末の3月に地域再生計画の変更申請が認定されるとともに、新年度早々に本件融資に係る金融支援についての区と両金融機関との契約も締結され、融資が実行されてようやく体育館改修工事に着手することが出来たのでした。
本融資がその後予定通り円滑に完済されたことは言うまでもありません。
本件もまた新聞等で報じられ話題となりましたが、こうした経緯を通して地元金融機関である巣鴨信用金庫とアートネットワーク・ジャパンの間に信頼関係が構築され、以降、その事業運営に資するなど、何よりの大きな財産となったのでした。

にしすがも創造舎体育館<

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