篤農と呼ばれた男

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「荊赫ノ荒蕪ヲ墾シ」
篤農とよばれた男 中山久蔵

明治に入り、多くの和人が北海道に入ってきますが、「篤農家」(熱心で研究にすぐれ尊敬される農家)とよばれた人は多くありません。中山久蔵は、誰もが篤農として認め、尊敬された農民でした。
農業篤志中山久蔵翁事績』によると、中山久蔵は、一八二八年(文政一一)河内国(今の大阪府)に生まれ、十代で親の許しがないまま家を出て諸国を放浪。仙台藩士片倉英馬と知り合い、彼の従者として一八五五年(安政二)胆振国白老にやってきます。その後仙台と白老を往復しますが、明治になり北海道開拓を強く志し、一八七〇年(明治三)に苫小牧に入植。土地がやせていたため、一八七一(明治四)胆振国千歳郡島松村に入植した、とあります。久蔵四四歳のときでした。
その年から島松に六,〇〇〇坪の土地を開墾、一八七三年(明治六)には島松川の対岸・札幌郡月寒村島松(現在の北広島市)で米作りに成功し、そこに居を移しました。
中山久蔵は、米のほか、果樹や蓮根を試作したり、鯉の養殖や、山林の植林などもてがけ、まさに「篤農」として活躍します。それと同時に、近隣の移民の世話をし、道路学校の設置など公共のためにつくし、一八八四年(明治一七)からは島松駅逓の取扱人にもなっています。
開拓判官松本十郎は、当時の移民の風潮を批判するなかで「すべての開拓者は中山久蔵を見習うべきだ」と絶賛し、一九一九年(大正八)の開道五十年の式典では「荊棘ノ荒蕪ヲ墾シ」(いばらの荒れ地をひらいた)とその苦労を称え、彼を表彰しました。
中山久蔵は、恵庭にもよく顔を見せ、恵庭最初の医師・山森丹宮(たみや)の娘、菊池寿満(すま)さん(九十一歳)は「久蔵さんは、背の小さな、かわいい、やさしげなおじいちゃんでした。父は久蔵さんが大好きで、来るととっても喜んでいましたね」と語っています。
◆76歳ころの中山久蔵

明治の初め、恵庭には誰が住んでいたか
中山久蔵に続き、恵庭にも移住者が増えていきます。明治の初めころ、恵庭に誰が住んでいたかを知る手がかりのひとつが、一八八〇年(明治一三)千歳村各村戸長役場ができたときの住民リストです。そこには先住者であるアイヌの住民の名も見えます。(開拓使の資料では、このときの戸数は二五戸でリストと合いません)

●明治一三年の恵庭の住民
〈漁村〉
村上芳三郎池田菊松池田貞吉関口文太郎
垣原定吉垣原清次郎新谷金次郎中村由松
塩谷栄作塩谷市三郎佐藤倉吉中川ホウアンクル
三沢エカシトクル北野三太郎白鳥ハウエバシノ鳥井福介
鳥井ウシロク小原亀吉
〈島松村〉
靏谷新次郎靏谷常左山口安五郎鈴木たま

山口安五郎の墓(左)