函館付近の平野はその大部分が海岸平野で、一部に河岸平野が見出される。また函館市街地の下町を成すのは函館山を陸繋島とする砂州で、北海道本島との間を結んでいわゆるトンボロを成している。トンボロとは島と本土とを結び付ける1つあるいは幾つかの砂州のことを呼ぶイタリア語から生じた術語で、沈降海岸に見られる現象とされている。砂州が1つの時には一重砂州、2本の砂州が中間に潟(かた)をはさむ時には二重砂州と呼ぶが、函館の場合は前者であり、秋田県の寒風山と八郎潟を間にはさんだ砂州とが結び付いている男鹿半島の場合は後者に当っている。
函館のトンボロ形成の機構は一般の場合と同様で、小向良七(1959)は次のように説明している。すなわち津軽海峡を東流する対馬暖流の一分派流は海峡西口より流入し、その一部の分流は0.3~0.5ノットの流速で湾内深く進入して湾最奥部を成す函館港奥に達する。一方函館山南方を流走する流れは松倉川沖において二分し、その1は反流となって大森浜沿岸から立待岬に向けて0.4~0.6ノットの流速で流れるが、他の1つは根崎方面の沿岸から0.3ノットの流速で流れ去る。この函館湾に向う流れと大森浜の反流とは渡島山地の南と北を洗い、ついに尖(せん)角岬(三角形にとがった平面形の砂の岬)を形成し、次第にこの形成が進行して函館山に連続するに至ったものと考えられている。このようにして津軽海峡方面および函館湾、大森浜から運搬された土砂はトンボロ形成の材料となったが、この供給土砂は風によって海岸付近に吹き上げられ、一部は大森浜付近の海岸砂丘を形成した。
この海岸砂丘は、万延元(1860)年の幕府による測量図によると大森山(大森山砂丘)の名で呼ばれており、2つの峰を持ち、山と称されるだけに、付近より際だった高さに表わされており、相当の高度をもっていたと思われるが、正確な高度は分らない。またこの図には大森山砂丘のほかにもその東方に砂丘が表わされている。
明治16年の函館県地理課の函館港実測図(1万分の1)により、砂丘として描かれている所を測定すると、東西約9町(981メートル強)、南北約4町(327メートル強)あり、高大森は110尺(33.3メートル)となる。この実測図によると、函館山の高さは1150尺、すなわち348メートル強となっており、現在の約333.8メートル(三角点)と比較すると14、5メートルの高度差がみられるが、砂丘の場合には高度が低いので函館山ほどの誤差はないかもしれない。これらのことを考慮に入れても砂丘の高さが30メートル近かったとするならば、かつての砂丘は広大なものであったと思われるが、その後この砂は砂鉄採取、土木工事の骨材その他に使用されたために、現在はまったく見る影もなくなってしまっている。
これらの砂丘の移動距離に関して小向良七(1959)によると、大森山砂丘では1860年から1915年の間に490メートル、すなわち1か年平均にして8、9メートル移動しているが、1915年から1948年の間では、ほとんど移動がなかったとしている。また大森山砂丘東部の湯浜砂丘はそれぞれ西部、中部、東部砂丘に分れるが、湯浜西部砂丘は1860年から1915年の間に920メートル、1か年平均16、7メートル、1915年から1948年の間では100メートル、1か年平均3メートル、湯浜中部砂丘では1915年から1948年の間に80メートル、1か年平均2~4メートルいずれも東方に移動したとされ、1860年から1915年の間に比べて、1915年から1948年の間の方がいずれも移動距離が短いのは、家屋等の建造物が増加したためと考えられている。
トンボロの幅は現在約900メートルであるが、函館港実測図(明治16年)によれば818メートル強であり、埋立によりその幅を増したものと思われる。
トンボロの地質については、昭和41年10月、下水道管敷設工事に関連して発見された函館市役所わきの「東雲町自然貝層」の調査により、その一部が明らかにされている。すなわち、その地質は下部には貝類を包含する青灰色の細砂層があり、その上に海草のくずを含む暗灰色砂層、海草のくずを含む灰色の砂層があり、これらは海成層と考えられる。これらの上には軽石層、ピート(泥炭層)、褐色砂層、ピート、灰色砂層、黒色砂層、盛り土が順に乗り、ピート層を包含するところからみて、これらは陸上堆積物と考えられる。この場所の標高は2.5メートルであり、海成層の上面高度は1.3メートルとなる。従ってこの海成層堆積当時の海面は、現在より1.3メートル余だけ高かったことになる。縄文海進の堆積層は奥尻島の場合には高度4メートル前後であり、函館山山麓の住吉町段丘の場合は前述したように4.5メートル余が当時の海水面と推定される。赤松守雄(1969)によると、縄文海進の最大上昇期の海水準は3メートル前後であり、より高いとしても5メートルは超えないと考えられている。従って東雲町自然貝層の推積は、縄文海進のピークから次第に低下していったある停滞時を示すものと思われる。
このような貝類を包含する海成層は東雲町だけでなく、彩華デパート建築工事や函館電報電話局の建築工事の際にも見出されている。
東雲町自然貝層を研究した石川政治(1966)によると、これら貝類はいずれも強内湾性のもので、貝類の中央値平均を取ると、北緯35度になる。中央値というのは貝の種類ごとにその分布を緯度で表わし、その南限と北限の中間の値を取り、その合計を貝の種類数で除した値である。
現在生息する函館付近の貝類の中央値平均は、石川政治(1964)によれば北緯38.3度であるから、東雲町自然貝層堆積当時の気候は現在よりも暖かかったことになる。
函館市大門広小路における建築工事の際にも、東雲町と同様の地層が見出され、下部から上部に、粘土層、層厚50センチメートルのピート、層厚30センチメートルの砂層、層厚10センチメートルのピート、50センチメートルの厚さの盛り土という層序を成している。これらのうち、層厚50センチメートルのピート層中の花粉分析概査によると、針葉樹よりも広葉樹の花粉が多く、比較的温暖な気候下にあったことを示している。
以上の資料によると東雲町自然貝層堆積時代は現在よりも温暖であり、海水面は現在よりも高く、その他の資料を合わせ考えると、関東地方の有楽町貝層(アトランティック期)に対比される。アトランティック期は今から7,000年~4,500年前の温暖湿潤な時期で、現在よりも2~3度高温であったと考えられており、ウルム氷期極相期ころの著しい海退の後、海面上昇に伴って海進の行われた時期である。ヨーロッパではベルギーのフランドル地方を模式地としてフランドル海進があり、海岸平野を形成したが、その最盛期にはリトリナ海進(バルト海地域)があった。東雲町自然貝層はこの海進が海退に転じたある段階に堆積したものと思われる。この時期には今日トンボロに当る所は海面下にあり、函館山は何度目かの孤島として存在していたものと思われる。