貝塚と住居址

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 函館に貝塚が形成された時の住居や集落はどのようであったのか、函館の貝塚は早くから全国に知られていたが、ほとんど未調査のまま宅地化して失なわれたので詳細が明らかでない。
 青柳町貝塚湯川貝塚から石組の炉跡が発見されたり、函館公園貝塚の上の裏参道の崖に竪穴住居の断面が出ていたなどのことから貝塚住居址があったことがわかる。住居の構造などについては煉瓦台貝塚の調査例を参考に貝塚住居址について述べるが、これも全面発掘をしていないので、部分的なことしか明らかでない。
 貝塚住居址は、何らかの関係がある。遺跡という広い生活面にある貝塚は、集落の一部なのか、また集落から離れた宗教的な祭場的場所であるのか、集団的社会における貝塚のあり方などを考える上にも住居址の配列や、それぞれの住居構造の違いが問題となる。煉瓦台貝塚の地理的条件は、旧海岸線に面した段丘上に遺跡があって、段丘は南に伸びているが、西側が段丘崖で比高7メートルと低くなり、現在の函館湾へと低地が広がっている。現在の海岸まで1.4キロメートルで、旧海岸線の段丘崖は遺跡付近で南北に直線状に形成されているが、北は西桔梗に伸びてサイベ沢のある桔梗台地へと続いており、南は大川町から富岡町へと伸びて亀田川に至り、更に梁川町から千代台町へと続いている。普通、貝塚は旧海岸線に近く、河川がさほど遠くない所にあるか、沢があって飲料水が容易に求められ、かつては鮭、鱒が上ったと考えられるような立地条件の位置にある。煉瓦台貝塚の近くには川や沢がない。遺跡の近くで飲料水が求められる所は、段丘崖の中間地点に湧水があり、掘井戸もあった。井戸は近代のものだが水量も多く、深さは地表から2メートルほどである。かつての旧海岸は現在より西に張り出していたので、湧水のある付近が沢で、飲料水はこの沢水を用いていたのであろう。
 煉瓦台貝塚が発見されたのは昭和23年で、当時はこのあたりは昔アイヌが戦った場所であるとしか思われていなかった。発掘は昭和25年9月に函館東高等学校考古学部が大場利夫を指導者として行ったのが最初である。この時は1号貝塚を主に発掘しているが、貝塚の西側で住居址の一部を確認している。炉址があって柱穴は内部と外部にあり、床面に粘土を敷き詰めていたが、住居壁が明確でなく、北西部に幅50センチメートル深さ20センチメートルの溝があったと言う。その他では貝塚から離れた位置に石棒が7本積み重ねられていたところがあった。石棒は安山岩製で長さ12ないし20センチメートル、横断面が円形でその直径は6、7センチメートルである。昭和36年5月、この貝塚一帯が宅地造成によって破壊されはじめ、亀田村(当時)教育委員会、地主の内村桂作、北口吉雄らの理解によって亀田村の関係者や函館市内の学生の協力で8月から9月まで発掘調査することができた。約100メートルの範囲に大小の貝塚が分布していたが、すでにこの一帯の宅地造成区画内に住宅が建築中で、調査範囲が限定された。発掘調査費はほとんどなく、奉仕による発掘でもあった。このころから遺跡のあった段丘の畑は次々と宅地化された。住宅建築工事現場でよく住居址が発見され、遺跡の範囲が意外に広いのがわかった。これらの地点から遺跡面積を推定すると、貝塚の分布地を含めて約2万平方メートルである。貝塚は1号から6号まであって、1、2、3号の貝塚は崖から東に60メートル離れて連続的な配列をしており、5、6号貝塚は西の崖に近い位置にあって、6号貝塚は発掘によって住居址の掘り込み面で発見され、4号貝塚も6号貝塚と共に発掘によって明らかになった。住居址は1号から11号住居址まで確認され、1、2号住居址は崖寄りに発見され、その南西に6号貝塚がある。1、2号住居址の北に3号住居址、更に東に4、5号住居址がある。また、1、2号住居址の南側崖寄りに8、9、10、11号住居址が並んでいた。住居址はこの地点の南方100メートルからも発見され、貝塚のない地域にも住居址群がある。貝塚住居址とは関係がないのであろうか。地上に現われている貝塚を図上で結んでゆくと東から北、そして西に連なって、ある輪郭ができる。本州では環状、半月形の貝塚の内側や外側に住居址の配列が認められたこともあるが、煉瓦台貝塚では1、2、3号貝塚のある東側周辺では竪穴住居址がなく、西寄りに土器製造址と考えられる粘土置場と作業場的な遺構が発見されている。その西には5号貝塚があったが発掘によって4号、6号貝塚が新たに現われ、それらは住居址が廃棄された後に貝塚ができたり、住居址の前庭部にあったものである。比較的小規模であるが、東側の状況とは異なって住居址と関係がある。同一遺跡内の貝塚であっても、性格の異なる貝塚があったと解釈しなければならない。これらを貝塚が堆積した時間差として見ると、地層の細かな観察によって、地表に露出していた貝塚と発掘によって現われた貝塚とでは成立に時間差があって、地表に露出していた貝塚がやや新しい。この違いは貝塚に含まれている獣骨の量や遺物量の差になっており、住居址と関係する貝塚の方が多い。遺跡から出土する土器形式は同一であるが、これを約100年間とすると、その間に変化があって性質の異なる貝塚が形成されたものと見ることができる。

煉瓦台貝塚住居址

棟瓦台貝塚一覧
貝塚規模摘要
1号貝塚14mx8m地表に露出
2号貝塚11mx8m地表に露出
3号貝塚14mx9m地表に露出
4号貝塚3mX3m埋蔵
5号貝塚9mx5m地表に露出
6号貝塚4mx4m埋蔵