この十三湊は岩木川の下流十三潟口に位する湊で、当時、津軽の産物をはじめ蝦夷地の産物もここに集まるところから、諸国の船もここに来て交易した。すなわち、南北朝のころの作といわれる『十三往来』という書によれば、「西は滄海漫々、而して夷船、京船群集、艫先を並べ舳を調え、湊市と成し」、という景況であったと伝える。そのため安東氏は「関東御免」の交易船を、同じ得宗領である若狭の小浜湊との間に運航させ、京都と結んで文物を交流し、しだいにその勢力を陸奥湾沿岸から蝦夷島沿岸に及ぼしたのである。
こうして安東氏は十三湊に福島城を築いて居城とし、愛秀の孫貞季(さだすえ)に至って、その長子盛季は下国家を称し、また次男の庶季(もろすえ)は応永年間、秋田の湯河港(土崎港)を攻略して湊家(上国家)を興し、4男道貞(みちさだ)は潮潟家を立て、南北朝時代には、東の南部氏と奥羽地方を二分する勢力であったが、十三湊に移って4代目の盛季の時に至り、南部義政との戦いに破れ、ついに蝦夷島に逃避した。