津軽船の活躍

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 安東氏が津軽十三湊を根拠として活躍していたことは、前節に述べたところであるが、この十三湊は、文明年間(1469~1487)のものと推定される『廻船式目』によると、三津七湊のうちの七湊の1つと称されていた。すなわち、三津とは、伊勢の安濃津、筑前の博多津、和泉の津を指し、七湊とは、越前の三国、加賀の本吉、能登の輪島、越中の岩瀬、越後の今町、出羽の秋田、津軽の十三湊をいい、早くから日本海沿岸の要港となっていた。安東氏は、こうした重要な湊の1つをおさえていることによってその勢力を扶植するとともに、鎌倉幕府から「関東御免船」として、安東氏の支配する回船は、湊役免除の特権を与えられていたほどであった。
 一方、北条執権家は、その勢力拡大にあたって、このように海運と関係の深い多くの地方豪族を起用し、その海運の支配権を通じて全国統治への触手を伸ばしたのである。安東氏は、この北条家の期待を全面的に受けつつ、関東御免船を駆使し、いわゆる安東水軍の名をもって日本海をまたにかけて活躍し、特に同じ得宗領であった若狭小浜との海運に重要な役割を果たしていたのである。
 当初、蝦夷地における産物の流通も、この機構によってもたらされたものである。その産物の詳細についてはわからないものの、嘉元4(1306)年、関東御免の津軽船20艘のうち1艘が、蝦夷地産の鮭および小袖を積んで、越中東放生津(ほうじょうづ)より能登をめぐって運航し、越前坪江庄下郷の三ヶ浦に漂到したという記録もあり(『大乗院文書』)、蝦夷地産の鮭や山丹方面からの織物などであったことを物語っている。ことに『十三往来』によれば、文明年間には、十三湊への商船の往来が絶えず、蝦夷との交易も行われていたというから、鎌倉末から室町期にかけての北海道と本州との交易は、こうした安東氏の活躍を背景に、津軽十三湊を経由して行われていたのである。