松前に於て、諸方より来る船頭商人等、夷人に対し地下人と同じく、非分の儀申懸くべからず、並びに船役の事、前々より有り来りの如く、これを取るべし。自然この旨に相背く族(うから)これあるに於ては急度言上すべく、速かに御誅罰加えらるべきもの也。 |
文禄二年正月五日 朱印 |
蠣崎志摩守どのへ |
初代松前藩主松前慶広像(松前町阿吽寺蔵)
これこそ、まさに日本国の統治者である太閤秀吉が、蠣崎氏をもって独立した蝦夷島の領主、すなわち支配者であることを、天下に証明したものである。もちろん、そのことはアイヌ民族の全く関知せざるところであり、土地・人民とも一方的に蠣崎氏の支配下に組込まれたのであった。
こうして蠣崎氏は帰国早々近在のアイヌを集め、「此上猶、夷敵対して志摩守の下知に違背し、諸国より往来の者某(シャモ)に対し、夷狄猛悪の儀有るに於ては、速かに其旨趣を言上せしむ可し、関白殿数十万の人勢を差遣はし悉く夷狄を追伐せらる可きなり」 (『新羅之記録』)といい聞かせて威嚇し、蠣崎氏はもはや単なる地方豪族ではなく、そのうしろには常に中央政権があることを宣言して、アイヌ民族に対する封建支配の確立と、収奪体制が期されたのである。