朱印の制書

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 次いで文禄元(1592)年11月、慶広は大坂に赴いたが、時あたかも秀吉は、朝鮮侵略の軍を進め肥前の名護屋にあったので、翌2年正月その陣中において再び謁した。秀吉は大いに喜び「高麗国を攻め随えんと欲し在陳せしむるの処、思いも寄らず狄の千島の屋形、遼遠の路を凌ぎ来るの儀、誠に以て神妙なり。高麗国を手裏に入れらるること更に疑いなし」(『新羅之記録』)と、さながら外征の成功の瑞兆のごとく感激し、志摩守に任じ慶広の希望した次の封彊制禁の朱印の制書と、毎年巣鷹を献上するための津軽から大坂に至る通行の許可証を下賜した。
 
松前に於て、諸方より来る船頭商人等、夷人に対し地下人と同じく、非分の儀申懸くべからず、並びに船役の事、前々より有り来りの如く、これを取るべし。自然この旨に相背く族(うから)これあるに於ては急度言上すべく、速かに御誅罰加えらるべきもの也。
     文禄二年正月五日 朱印
                         蠣崎志摩守どのへ

 

初代松前藩主松前慶広像(松前町阿吽寺蔵)

 これこそ、まさに日本国の統治者である太閤秀吉が、蠣崎氏をもって独立した蝦夷島の領主、すなわち支配者であることを、天下に証明したものである。もちろん、そのことはアイヌ民族の全く関知せざるところであり、土地・人民とも一方的に蠣崎氏の支配下に組込まれたのであった。
 こうして蠣崎氏は帰国早々近在のアイヌを集め、「此上猶、夷敵対して志摩守の下知に違背し、諸国より往来の者某(シャモ)に対し、夷狄猛悪の儀有るに於ては、速かに其旨趣を言上せしむ可し、関白殿数十万の人勢を差遣はし悉く夷狄を追伐せらる可きなり」 (『新羅之記録』)といい聞かせて威嚇し、蠣崎氏はもはや単なる地方豪族ではなく、そのうしろには常に中央政権があることを宣言して、アイヌ民族に対する封建支配の確立と、収奪体制が期されたのである。