亀田の農業

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 このように早期亀田の住民の多くは、出稼人で占められ、とかく永住性に乏しかったとみられるが、この地に農業がとり入れられたのも、おそらくは、これら出稼人の定着を求めてのことであったと思われる。すなわち、亀田の農業は本道中もっとも早くから行われたところで、亀田番所検断(名主)白鳥孫三郎は、南部の出稼者一家に1夫ずつ農耕を強制して開懇に当らせ、これを拒む者があれば一家を追放する制をたてたといい、元禄5(1692)年作左衛門という者が、新田を試作したというのが、記録に現われた本道の水田の始まりである。しかし、この試作は2、3年にして廃止したという。
 更に享保2(1717)年の著といわれる『松前蝦夷記』によれば、
 
東郷亀田村より、畑多き所ゆへ馬大豆年六十俵七十俵斗収納申よし。
松前西東の地にて雑穀物、栗、稗、大豆、小豆、午蒡、大根、瓜、茄子並に麻、多葉粉、総て畑物土地相応に出来申し候。尤所々畑作これ有、百姓勝手次第作り取る由。
年貢納り申し候は亀田村馬大豆ばかりなり。

 
 当持、この地方において農業生産物から年貢を徴収したのは、実に亀田村だけであったが、後年各地において畑1反歩(10アール)につき、銭90文あるいは作物の一部を納めさせることになった前例となっている。