しかるに、この近世初期以来永く続いた近江商人団による流通独占体制は、宝暦前期を最後にその後急速に崩壊していった。たとえば宝暦8年約30名を数えた近江商人も、28年後の天明6(1786)年には実に11名に減少している。わずか30年足らずの間に、なぜこれだけ大きな変化が生じたのであろうか、それには色々な原因が考えられるが、その主なるものを挙げると、まず第一に、近江商人と全く系譜の異なる主に江戸系商人が進出し成長しはじめたこと、第二にこれら江戸系商人は、蝦夷地の広大な良漁場を請負い、産物も自営船を利用して出荷しはじめたこと、第三には近江商人の支配地が主に西蝦夷地ないしは近場所であり、またその経営のあり方も、前貸制を通じた零細漁民からの買取に、比較的重点をおいていたという中で、この期に襲った松前・江差地方の鰊の不漁が、近江商人の経済的基盤に大きな打撃を与えたことなどが挙げられる。
宝暦・天明期にめざましい活動を開始する主な商人は、能登の村山伝兵衛、紀州の栖原角兵衛、陸奥の伊達林右衛門、飛騨の飛騨屋武川久兵衛などであり、村山伝兵衛を除き、すべて渡道以前に江戸を足場に活躍した経歴を持つ商人たちで、栖原、伊達は松前に進出後も依然として江戸に店を持っていた。