東蝦夷地上知

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 また、同時に松前章広に対しても左の命があった。
 
         松前若狭守
今度異国境御取締仰付けられ候に付、東蝦夷地の内、島々まで当分御用地仰付けられ候間、其趣存ぜらるべく候。尤も右土地より是まで年々其方収納の分は御用中は公儀より御取替金御下げ成し下さるべく候。右の御用御書院番頭松平信濃守、御勘定奉行石川左近将監、御目付羽太庄左衛門、御使番犬河内善兵衛、御勘定吟味役三橋藤右衛門、右五人の面々重立仰付けられ、右土地の蝦夷人教育の儀を始め、交易の趣法等万端差引進退仕るべきの旨仰出され候。是又其意を得られ、右の面々の差図に任せ候様致さるべく候。委細の儀は懸の面々より申し談すべき旨、相違候条其意を得談さるべく候。
    寛政十一末年正月十六日

 
 すなわち、まず東蝦夷地を上知させて直轄することになった。当初は浦河から知床半島に至る地域ならびに島々を、向こう7年間の期限を定めて上知させたが、しかし浦河以東に赴くには、松前藩領である箱館地方および蝦夷地を通過しなければならぬ不便があり、松前藩もまた煩労が多いため、知内川以東浦河までの地を返上するという内願があり、同年8月この地域も直轄地に加えることになった。松前家に対しては用地の全部の代地として、武州埼玉郡久喜町において5000石を賜わり、なお東蝦夷地収納金の内若干を藩に支給することとした。このため箱館は幕府の直轄地に編入され、東蝦夷地経営の根拠地となり、発展すべき好運に当面したのである。