幕吏の西蝦夷地視察

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 東蝦夷地の永久上知以来、松前藩が反省して幕府の東蝦夷地の処置にならい、蝦夷地住民の撫育や警衛につとめたならば、松前および西蝦夷地は保有することができたと思われるが、しかるに、同藩には有為な人材がなく、財政も極めて窮乏していたため、何ら積極的な手段をとることがなかった。
 文化2年8月、幕府は目付遠山景晋、勘定吟味役村垣左太夫定行に松前および西蝦夷地の視察を命じている。その目的は、前年かつてラックスマンに与えた信牌をもって、わが国との修好を求めて長崎に来航したロシア使節レザノフをのせたロシア船が、幕府の拒絶に憤懣を抱き、「わが国に近き島々などにも決して船掛りすべからず」と達したにもかかわらず、あえて日本海岸近くを北上し、5月宗谷ノサップ岬に上陸して松前藩吏と会い、数日滞船し、多くのアイヌや日本商人と接触して去った真相を調査するためであったと思われる。同年冬、景晋は松前に到着したが、定行は途中病気にかかり、いったん江戸に帰り、改めて翌3年松前に至り、共に西蝦夷地宗谷まで巡検して8月江戸に帰って復命した。