ディアナ号の箱館出帆

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 こうして事件は落着し、実に2年2か月と26日の長きに及んだゴロウニンらの監禁生活も、ついに終りを告げ、ディアナ号は9月29日箱館港を出帆して帰国の途についた。
 このディアナ号来航事件は、箱館港にとっては、寛政5年ラックスマン来航以来の大きな事件であった。しかし、ラックスマンの来航の時は警戒も極めて厳重であったが、この度の来航は来意がはっきりしており、かれは謝罪してゴロウニンらの放還を請い、こちらはこれに応えるということで、むしろ優位の立場にあり、日本側の官民の気持にも大きな余裕がみられる。
 8月にゴロウニンらが福山から箱館に移されてからは待遇も改善したといわれ、土民もその旅寓を訪れて帰還の喜びに祝意を表したと伝えられている。
 9月27日ゴロウニンらがディアナ号に乗船した時には、市民もロシア船に群がり至り、彼らも快く艦内を案内して記念の品をわかち、子供らには砂糖の小塊を与えたら、父親たちはその場で子供のもらった砂糖を、取りあげて紙に包んで懐に入れる風景も見られたということである。
 9月29日朝出帆の時の光景は『日本幽囚記』には、
 
 貞助(村上)と熊次郎(上原)と高田産嘉兵衛は、本艦の出港を手伝うため派遣された数隻の小舟と共に、われわれを見送ってくれた。本鑑が湾内を間切っている間に、函館市付近の海岸一杯に人だかりが出来た。いよいよ本艦が湾口に達した時、われわれの親友たるこの日本人たちは心から訣別の挨拶を述べた。その時われわれは少しばかりの贈物をした。向うでは「さなきだにもう沢山頂きましたので」と云ったが、強いて押しつけた。一同が本艦を離れる時、双方から「ウラー!」と叫んで、お互の幸福を祈り、ロシヤと日本の善隣関係が一時も早く結ばれんことを念じた。小舟に乗った日本人たちは、姿の見える間は休みなく礼をしていた。しかしその時順風が吹き出して、本艦はずんずん進んで行った。そしてわれわれがあれだけの不幸を嘗めた陸岸-(もはや余りにも文明になり過ぎているかも知れない)ヨーロッパ人から野蛮人と呼ばれている、平和な住民たちの寛仁大度をあれだけ味はされた陸岸-はぐんぐん遠ざかって行った。

 と記されている。
 ゴロウニン事件は、これによって平和裡に一切の解決を見た。その間、両国間の調停、斡旋に身命を賭して当たった高田屋兵衛の努力は偉大であった。リコルドもこの点につき、ゴロウニンらの釈放が決定した時の手記にも、「正直に云って、この多幸な場合において、多くの点で与って力あったのは、大量で開けた高田屋嘉兵衛であると云わねばならない。彼を介して日本官憲との、この最初の会見が行われ、明敏な嘉兵衛の頭があったればこそ、物事について全然正反対の概念を持つ2つの民族が、それぞれの頑強な希望をまげて、共通の利益のために合意出来たのである」と、書き綴っている。