松前藩復領の経緯

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 このころ、欧州においては、ナポレオン戦争などがあって、ロシア政府の東漸南下政策も次第に消極化の一途をたどる傾向にあった。ことに折から松前藩の幕閣に対する政治工作が効を奏し、文政4(1821)年12月に至り、幕府は復領を許可し、左の指示によって、ついに松前藩が再び蝦夷地一円を領有統治することになった。
 
      松前志摩守
一 其方儀、最前蝦夷地の手当行届き兼ね、捨置難き様子に付、東西蝦夷地追々上地仰出され、年来公儀より御所置仰付けられ候処、奥地島々迄、連々御取締相整い、夷人撫育、産物取捌等、万端居合い、御安堵の事に候。其方儀彼地草創の家柄、数百年の所領に候得ば、旧家格別の儀を思召され、此度松前蝦夷一円前々の如く返し下さる可き旨仰出され候。彼地是迄の御仕法遺失なく相守り、異国境御要害の儀、厳重に取計う可きの旨御沙汰に候。
一 此度松前蝦夷地返し下され候に付ては、取り来り九千石は上り候。蝦夷地の儀、異国境御大切の事に候得ば、津軽越中守、南部吉次郎警固の義は、是迄の如く相心得、以来人数松前箱館へ差渡すに及ばず、銘々領分渡海口に備置き、万一非常の義これ有る節は、其方より案内次第早々渡海、手に合い候様致す可き旨仰出され候間、兼々示し合い、御備向の儀隔意なく申談され可く候。尤両家警衛を頼りに心得、自国の備え等閑にせざる様心掛らる可く候。且又是迄彼地の御主法取計い方の儀、得と松前奉行へ承り合い、入念に申付けらる可く候。
     文政四年十二月七日

 
 これによってみると、幕府直轄以来の施設によって、奥地の島々まで防備も整い、アイヌの撫育や産業の手配など内政も軌道に乗ったので、ことに松前家は蝦夷地創業の旧家であり、かつ蝦夷地は数百年来の所領でもあるから旧家格別の配慮で復領を仰せ出されたというのである。これも幕府では、しばらく平穏化した北方情勢から、これを永久的なものと判断し、蝦夷地経営に要する負担を免れようとしたところもあり、またその裏には、『水戸烈公上書』や『藤田東湖見聞偶筆』などに見る通り、松前藩は神田一橋家(一橋治斉)を通じて、莫大な賄賂を送って老中水野忠成にとり入り、時の将軍家斉に請願した結果といわれ、全く老中水野忠成の独断的な裁量とさえいわれている。