以上のごとく多年辺防に関する多端な情勢が続き、これがため藩の出費を一層増加させたばかりか、加えて築城の問題もあり、その財源の捻出には、沖ノ口出入貨物の口銭を2分から3分に引上げて収納するとともに、福山・江差・箱館の住民に諭して献金を求め、あるいは場所請負人に多額の上納金を命ずるなどの手段をとった。この間、箱館へは藩主がしはしば来ているが、重役の東西蝦夷地巡検などはほとんどなく、復領後これが行われたのは、文政10年ころに蠣崎次郎がたった1度巡回したに過ぎず(『松前秘説』)、住民の介抱、撫育、保護などのすべての取締りは、現地詰合いの下級勤番にゆだねられ、その多くは営利をこととする請負人らの配下の者どもの専断にまかせられた。従ってこれが交易の不正と酷使につながったのも当然である。もちろん、藩ではそれを知らなかったわけではあるまいが、それを糾明することよりも大目に見なければならない藩財政の弱体があった。アイヌ住民の怨嗟(えんさ)の声が再び識者の関心を蝦夷地に向けさせ、大きな関心事として北方警備と蝦夷地再直轄が論議の焦点となった。そしてこれを早めたのは神奈川条約による箱館開港である。