箱館が神奈川条約によって国際的な関係を持つと、安政元(1854)年6月26日、松前藩に命じ箱館ならびにその付近5里の地域を上知し、6月30日には箱館に箱館奉行を置き、勘定吟味役竹内清太郎保徳をこれに補し、下野守に任じた。一方当時北辺の情勢をみると、これより先嘉永6年ロシア兵の一隊が、北蝦夷地(樺太)久春古丹に上陸占拠するということがあった。そこで幕府は当然起こる国境談判を有利に実地で決めるため(前述蝦夷地見分)、目付堀利煕、勘定吟味役村垣範正を派遣したが、両者が着いた時はロシア兵がすでに退去した後なので、その実情並びに松前、蝦夷地を調査して帰った。その結果を、「松前並蝦夷地惣体見分仕候見込之趣大意申上候書付」として安政元年9月に提出した。これは蝦夷地再直轄を決定する根拠となったばかりか、上知後の幕府の蝦夷地経営の基本方針を示唆する重要な意見書となった。