ジョン・ウイル
これは箱館港が貿易港としての、基本的な整備がほとんどなされていなかったことによるものである。従って密貿易なども頻繁に行われていたらしく、後に函館のイギリス領事館の警保係になったジョン・ウイルの『回想記』(当作守夫訳)によれば、文久元年のことであるが、次のように記されている。
これが箱館への二度目の航海であり、上記のように、売却するために船長個人の経費で、上海で仕入れた大量の雑貨を持ってきていた。 |
当時は、貨物の送状は特別に調査をするということはなかった。事実、私は誰か外国の送状を翻訳のできる人がいるとは考えられなかった。とにかく、私達は大きなボートを下ろし、支度をした。エバ号にはスターン(船尾)に三個の大きな窓があり、ジンやブランデー、またドーソンの靴のケースのようなもっと大きな箱でさえ投げ下ろすことができた。暗くなってハッチ(昇降口)が閉ざされた時には、フォークスル(船首楼)の積荷の中にこしらえられた穴通路を通ってホールド(船倉)の中に静かに入り、選んだ箱をアフト(船尾)に運び、船室の先へ積荷の中を持っていった。 |
一人が甲板に据えつけられた家の中にいる運上所(税関)の役人をおさえておくためにさしむけられ、彼が船尾を見るために後甲板に来ないように、見張りをつけておいた。この仕事は一等運転士が当った。おもに、運上所(税関)の役人を眠らせるために、普通ラムやジンの壜や少量のアルコールを持っていった。 |
スターン(船尾)の下に固く縛りつけてある、大きなボートに大急ぎで積込み、港内に建てられていた運上所(税関)の建物の壁に近い、海岸のある地点に運んでいった。手助けをしてくれる人も非常に多く、雑貨品はす早く陸揚げされた。このような方法で、関税のかかる雑貨品の半分以上の品を、箱館への航海の度毎に陸に密輸入した。税のかからない品物はすべて正規の手続で陸揚げされた。密輸入する品物を積んで、船から出るとき嫌疑をかけられないように、万が一、役人が周囲にいるときには、私達はボートを港から沖に向けて出ることにし、船からはるか遠くへ離れてから、岸に向って漕ぎよせたので私達は決してつかまらなかった。-中略-私達の持っていった雑貨類は、案内人によってある場所(現在の弥生小学校あたり、当時寺町と呼ばれ浄玄寺、称名寺、実行寺がならび、前は昼なお暗い木立があり、裏は墓地となっていた)に運ばれ、包装した商品の隠してある所、時には墓地の中に案内され、密売したあと船へ戻ってきた。 |
とあって、密貿易は入港するたびの慣例として行われていたと書き綴っている。