製陶

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 陶器は美濃国恵那郡の陶工、岩次為治の2人が出願して、安政5年箱館谷地頭に窯(かま)を築き、尻沢部の水車をもって陶土を粉砕し、同年9月官金500両、12月同1,500両を借りて製造を試みた。以後万延元年までしばしば試作されたが、その製品は良悪さまざまで、そのうえ薪材の松は南部から取り寄せ、陶土も最初は美濃から移入し、のちに湯川村松倉に良い原料を発見して用いたけれども、収支償わず、ついに廃業してしまった。安政5年、箱館奉行は尾張の陶工本多桂次郎を招き、茂辺地村で陶器を製造させた。すなわち同6年から製造に着手し、のち小樽に移ってこの仕事を続けた。また在住石原寿三郎は、五稜郭の濠の土で急須を焼いた。それは、雅致には富んでいたが、土質が悪く、もろくて実用には適しなかった。なお安政6年仙台藩医の日記に、「昨年頃三浦藤蔵罷下り、瀬戸焼万世話致し候得共、土宜しからざる由にて手始もこれなく候処、能々吟味致し候得ば、鍛冶村と申す処より宜敷瀬戸土出る由」とあるが、他に試みられた記録がなく、産業としての発展はなかったものと思われる。

岩次作 御神酒徳利(市立函館博物館)[1]


岩次作 御神酒徳利(市立函館博物館)[2]