洋画

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松山松三郎

 明治の洋画界に貢献した横山松三郎は、天保9年択捉島に生れた。父は文六といい、寛政年間高田屋嘉兵衛に従って北地開発に挺(てい)身したが、嘉兵衛が淡路に隠退してからは、択捉に安住の地を求めた。松三郎は父の没後箱館に出て呉服商に奉公し、余暇には北斉の絵を手本に絵を学んだ。安政元年箱館に寄港した露国提督プチャーチン一行のなかに、画家がおり(レーマンともモジャイスキーともいう)、それについて洋画法を習ったといわれる。元治元年箱館奉行官船健順丸上海に貿易航海の際乗船を許され、上海で油絵と写真技術を習った。帰途横浜で下岡蓮杖からも写真術を習い、また石版印刷の技術も修めて石版油絵店を経営し、陸軍士官学校で絵を教えたこともあるという。