写真術については、本章第4節にも若干述べたが、安政元年の
ペリー一行のなかに写真師
ブラウンがおり、ダゲレオタイプで写した人物・寺院・風俗などがある。またアメリカ艦隊より少しおくれて入港した、ロシア軍艦
ディアナ号に乗っていた、
モジャイスキーもダゲレオタイプで市中を撮影している。安政末年に越後新発田から足袋職人として渡った
木津孝吉は、仕立屋を始め、
箱館最初の洋服を作った人であるが、たまたま郷里に墓参の船中で、外国人の持っていた写真機を、土産用に持参していた熊の皮と交換し、
箱館に帰ってから
ロシア領事ゴスケウィッチや館付医師
ゼレンスキーなどから、現像や焼付けの技術を学び、元治元年新地新町(現船見町)に
写真場を開いた。これまさに本道写真屋の元祖である。また安政6年に28歳で
長崎通詞とともに
箱館に来た
田本研造(紀伊の人)は、前記
ゼレンスキーの手術で右脚を切断(壊疽(えそ))、それを縁として写真に興味を持ち、
横山松三郎、
木津孝吉らとともに研究し合い、孝吉が東京へ引上げる際その道具を譲り受け、明治二年
会所町に開業した。弟子も多く業も優れ、明治の本道写真界で活躍した人々は研造の流れをくむ者が多い。
田本研造と写場[1]
田本研造と写場[2]