蝦夷地において最も恐れられたのは、天然痘の流行であった。寛永元(1624)年初夏から2、3年にわたって蔓(まん)延し、藩公の子息までも死に巻きこみ、また万治元(1658)年には春夏の間に発生し、秋には亀田にも蔓延したといい、更に文化6(1809)年には、六箇場所のうち尾札部に流行したという記録が見られる。こうした天然痘の流行は、処女地である蝦夷地に入り、猛威を振い、蝦夷の人口に大打撃を与えた。
天然痘のほか、寛政3(1791)年に渡来した、筑後柳川藩医淡輪(たんわな)元朔の『東奥遊記』によると、このころ和人地にあった病気は血毒、湿痺、梅毒、脚気、気積などの病名が見られ、また菅江真澄の紀行文には疝気(せんき)の名も見える。