時おり相撲の興行があり、また草相撲などもたのしんだ。『蝦夷実地検考録』に、「角カ、山之上町に興行す。江戸角力も時々来る。昔は船手の者などの力あるもの会合して、戯に角力とりしなり、土人力の優れる者をホデという、最手の古言なるべし」とある。軽業の興行もあった。
歌舞伎は弘化2(1845)年浅尾奥蔵、大谷新幸、市川弁之助らが山ノ上町田中座で興行、新幸(初代大谷友右衛門の弟子)は江差へ行って大谷座を本拠にしたが、弁之助は田中座の座付きとなり、天神町に住んで人々に踊りも教えた。女形で有名であり、市川男女蔵の弟子で、その幼名をもらって弁之助と称したが、晩年養子に名を譲り、滝野屋吾岳と改め、この地で没した(実行寺に墓がある)。
このほか幕末には市川白猿(7代団十郎の4男)や、歌舞伎踊りの振付師匠西川虎之助(西川扇蔵)門下らも来ており、関三松(後、尾上梅蝶)も父三蔵に連れられて田中座に来ている。これらはみな江戸歌舞伎であるが、万延元年以来大坂の俳優佐野川咲之助が来て、永く留まったこともあった。嘉永5年には三味線師匠鶴沢糸鳳軒も来ている。