遊歩区域をめぐって

42 ~ 44 / 1505ページ
 次に(4)の遊歩区域をめぐる問題に目を向けておこう。ペリーがこの問題を交渉案件として提示したのは、4月26日の松前勘解由以下との会談の席上(於応接所)においてであった。すなわちペリーは、松前勘解由が藩主より全権を委任されている旨ペリーに告げるや、幕府徒目付平山謙二郎、通詞名村五八郎の2名が未だ箱館に到着していないこと、箱館遊歩区域については、同地を視察したうえ決定する旨「江戸」で応接掛林大学頭と既に協議ずみであること、などを理由に、松前勘解由に対し即刻この場で決定するよう迫り、その範囲については、下田は狭い土地故、海中の小島を中心に7里四方と定めたが、箱館は「濶漠」な地故、10里四方としたい旨告げた(「御用記写」、原漢文)。
 これに対し松前勘解由は、箱館遊歩区域は、同地を視察したうえで決定する旨林大学頭と協議したというのであれば、江戸に行って林大学頭と協議すべきであり、また、この場で「即定」したいとの要求は、後日決定するとの条約文(第5条)と異なると反論し、さらに、後日決定するとの条約文は、箱館で決定する意だとのペリーの主張に対しても、「我公管轄する所の地方、皆政府之命を奉じ、而してこれを守るのみ」としたうえで、「行歩之一件、極めて是(これ)重事なり。政府之命を得ずんば、則ち此を定むる能わず。江戸に聞き、而して後これを回答す」(同前、原漢文)と返答した。
 松前勘解由がこうした返答をするや、ペリーは意外なことを主張しはじめた。その大意を示すと、ほぼ次のような内容であった。すなわち、先に林大学頭は、50日後に、「人」(平山と名村)が箱館に来て遊歩区域を「定議」すべきであるといったが、「人」が来ないばかりか、遊歩区域の決定もみていない。したがって、「大夫」(松前勘解由)がこの事を定めるべきである。これは「小事」であって、何故に遅れているのか疑問である。今「大夫」が下田の事例に照らして決定すれば、それですむことではないか。今、箱館に来るために要した費用は「甚大」であり、1万余両にもなる。故に久しく待つことはできないので、即時決定すべきである。もし、それができないならば、江戸に行って林大学頭と談判せねばならぬ。また先に、50日後に箱館遊歩区域の件を決めることを「国政」が許したのに、今定めることができないというのであれば、これは「国政之失約」であり、したがって林大学頭は上記の費用を「償還」しなければならない。これはまさに両国の「和好」ならざることであり、その「罪」は「国政」にある、と(同前、原漢文)。
 上記のペリーの主張には、いくつかの重大な虚言が含まれていた。まず第一に、ペリーは「江戸」で林と協議した如く主張しているが、ペリーは江戸には行っていない。第二に、箱館遊歩区域については、調印日より50日後に箱館で協議・決定する旨林大学頭と協議ずみの如く主張しているが、こうした取り極めは一切行なわれていない。なおペリーが、「五十日」という日数をもちだしてきたのは、おそらく、3月3日の林・ペリー会談で下田の即時開港が決定した際、ペリーが下田開港にかかわる細則を下田ですぐ協議したい旨主張したところ、林が「直ニは参り兼候、先下田奉行等も出来候上ニ無之てハ参り兼候間、今より五十日位は間合無之ては難参候」(「墨夷応接録」『幕外』附録1)と答え、これに対してペリーが「五十日後ニ相成候得は、其間ニ拙者は箱館港を一覧致置度候得は、箱館へ参り可申候」(同前)と言ったことによるのであろうが、さらにここで注目しておかなければならないことは、このペリーの箱館行の要求に対して、林は、「箱館へ被参候ては、只港之様子一覧被致候而已にて可然と存候」(同前)と言い、ペリーも「承知仕候、一覧致候而已ニ而宜き事ニ候」(同前)と言っていたことである。
 であってみれば、箱館におけるペリーの言動、とりわけ遊歩区域の即時決定の要求とその主張のあり方は、まさに虚言に満ちたものであったといってよい。ペリー側の記録である『遠征記』・『遠征日記』・『随行記』に右のペリーの主張の具体的な内容が一切記されていないのもそのためであろう。なおペリーは、ここでも平山謙二郎・名村五八郎の未着に不満の意を示し、遊歩区域の即時決定要求に体する松前勘解由の否定的回答とからめつつ、「国政之失約」と非難していることは注目されてよい。その経緯は複雑ながら、先に応接掛が懸念していた問題が現実のものとなったからである。