次に4月18日入港したアメリカ捕鯨船レベレット号の船客と、5月1日アメリカの商船カロライン・フート号で来航した商人リード等の箱館止宿・居住の要求にかかわる問題について触れておこう。両者の要求の交渉にはともにロジャーズが介在し、リュードルフも通訳として活躍しているが、まず前者についてみると、レベレット号の3人の船客は、日本側にはアメリカ人としていたが、内実はイタリア人2人、フランス人1人で(『グレタ号日本通商記』)、また上陸止宿の理由も箱館奉行宛ロジャーズ書簡では、単に「子細有て此地に乗来たる船に止り難し」(『幕外』11-46)とあるにすぎなかったが、リュードルフは「サンフランシスコから品物を持って来て、ここに下船するつもりとのことであった。酒場を開業するらしい」(『グレタ号日本通商記』)と記している。しかし、箱館奉行が彼等の箱館止宿を拒否したのに加え、彼等自身その後の見通しを何一つ持っていなかったこともあって、彼等はアメリカの商船が入港する迄との条件付で箱館での止宿を要求せざるを得なくなった(『幕外』11-42、46)。そのため箱館奉行は、やむなく「條約第五个條之趣ニ基キ」(『幕外』11-135、文脈からすると「漂民」扱いとみられる)彼等の止宿を許可し、家1軒を提供した(『グレタ号日本通商記』、同史料には「この家は、西はずれで海岸に一軒だけ離れて建てられていた」とある)。前者の問題は、一応これでけりがついたが、後者の問題は少々複雑であった。
5月1日入港したカロライン・フート号は、アメリカ人商人リードとドジャティーの共同傭船で、同船には彼等や船主代理人ドーティーの夫人や子供たちも乗船していたが、彼等が婦女子を連れて箱館に来たのは、箱館でアメリカの捕鯨船に日本で入手できない品物を供給し、もし日本が気に入れば、暫く日本に居住する予定でいたからであった(『グレタ号日本通商記』)。同船は、安政元年11月13日サンフランシスコを出帆し、ハワイのホノルルに寄港したうえで日本に向かい、安政2年1月27日下田に入港した(同前、『幕外』9-61)。ところが下田に入港するや、対日ロシア使節プチャーチンの乗艦ディアナ号が大津波で大破し、使節一行が帰国できないでいるという状況に遭遇した。プチャーチン等は、カロライン・フート号の下田入港を大いに喜び、リード等を歓迎したこともあって、両者の間に同船の傭船契約が成立、その結果カロライン・フート号は、同年2月25日、ロシアの士官・水兵等159人(他の270人は残留)を乗せて下田を出帆し、3月4日箱館に寄港して薪水食料等を補給し、彼等を無事カムチャツカのペテロパウロスクに送りとどけたうえで下田へ戻り、4月24日、同地に残留していた婦女子他を乗せて箱館に来航したのであった(『グレタ号日本通商記』、『幕外』9・10・11)。
しかもリード等は、先のレベレット号の船客の場合とは異なり、下田で日本側役人との交渉を経験し、そのなかで彼等の来日目的がスムーズには実現しえないことを知るに至っていただけに、彼等は下田滞船中にアメリカ艦隊司令官ロジャーズを介して日本側に一定の政治的圧力をかけた上で、箱館に来航したのであった。すなわちリード等は、下田滞船中に、たまたまロジャーズが乗艦したヴィンセンス号が下田に入港したのを機に、ロジャーズに対し日本に来た目的を告げるとともに、彼等の要求に対する日本側役人の対応の不当性を強く訴え、日本側に彼等の目的を実現しうるよう働きかけてくれるよう要望した。そのためロジャーズは、アメリカ国民の権利を守る立場から、下田奉行に対し、日米和親条約の基本理念と特に同条約第4条、第5条の解釈のあり方(ともにアメリカ側の)を説明しつつ、リード等の要求が不当なものではなく、当然認められるべきことであることを主張するとともに、もし当該条文の解釈において、日米両国間に相違がある場合には、日本側の解釈のみで事を処理せず、両国政府が改めて協議して解決すべきであり、条約というものは、もともとそうした性格のものであることを伝えていたのである(『グレタ号日本通商記』、『幕外』11-135他)。しかも、ロジャーズの乗艦したヴィンセンス号は、カロライン・フート号より先に箱館に入港し、リード等が箱館に来航した時には、既にロジャーズがリード等の要望の件を箱館奉行に伝えていた(『幕外』11-49)。
このリード等の要求をめぐって日米間で問題になったのは、いうまでもなく条約第4条と第5条の解釈であったが、とりわけ大きな問題となったのが第5条の「一時居住」(temporarily living、和文では「当分…逗留中」)の語句をめぐる解釈であった。当初箱館奉行は、「右当分といふ意は、五日或は七日、多きも一月、二月に過さる事にて、漂民には止む事を得さる事情にて、仮に寄宿せん事を許したる儀与心得候、…今般申さるヽ処の者ともは、妻子を携来りて居住するよしなれは、其当分といふは、前にいふ吾邦の当分五日、七日の間にはあらさるべし」(『幕外』11-92)として彼等の要求を拒否した。つまりこの時点での箱館奉行の解釈は、第5条の主たる対象はあくまでも「漂民」であり、したがって、その逗留期間も5日~7日と解すべきというものであった。しかし、ここで注目しておきたいことは、当初箱館奉行は、右のような見解のもとに、リード等の要求を拒否したものの、その後下田奉行宛ロジャーズ書簡の和訳が到着し、その内容をつぶさに検討した上で、老中阿部正弘に対し、ロジャーズの見解に対する意見を上申し、その中で「本文暫時居住与申儀、条約書ニは当分逗留中与有レ之、意味少々相違仕候とも、大意は同様」(『幕外』11-135)と云い、かつ「本文暫時之字、和文ニは当分と有レ之、蘭文ニは一時寄居とありて、弥彼方の申条たしかなる様にきこえ可レ申哉」(同前)と云っていることである。また箱館奉行は、こうした意見を上申しつつ、老中に対し条文の解釈とリード等の要求に対する具体的な対応方法を早急に指示するよう要望していった(『幕外』11-136)。
こうしたこともあって、以後幕閣は、ロジャーズから提示された問題を、条文の解釈に関し改めてアメリカ側と協議するという問題も含めて前向きに検討しはじめたが、リード等に知らされた箱館奉行の正式な回答は、先の一時居住拒否の回答のみであったため、リード等は大きな不満をいだきつつ、5月14日箱館を去った。なおその際、カロライン・フート号は、先のレベレット号の船客3人を乗せて出帆した。ヴィンセンス号が出帆した翌日のことであった。
このように、箱館開港直後には、入港外国船、とりわけアメリカ商船との間に、日米和親条約の第4条・第5条・第7条の解釈をめぐってトラブルが生じたが、これは、いわば生じるべくして生じた問題であったとみることができる。というのも、ペリーが日米和親条約の締結に際し、日本側に強く求めたものは、長崎以外の港の開港と、鎖国体制下の長崎におけるオランダ人に対する日本の扱い(日本におけるオランダ人の立場)とは根本的に異なる在日アメリカ人の自由と通商の可能性を条約にもりこむことであり、第4条・第5条・第7条は、第2条とともにまさにこれらのことを規定したものであったこと、ところが、このペリーの要求に対し日本側が最も強く抵抗したのが、まさにこれらの諸要求であり、しかも同条約は、右のペリーの要求に関わる諸条文(特に第4条・第5条・第7条等)を含め、調印前に相互に英語版、中国語版、日本語版、オランダ語版の語句の綿密な照合・点検を行なうことなしに調印されたために、特に英語版と日本語版との間にその表現において微妙な相違が生じるにいたったからである。これらの問題(アメリカ人の箱館居住、アメリカ人が必需品を要求した場合のその代価の金銀貨による支払い等)は、その後の安政4年閏5月5日調印の日米協約によってほぼ解決されるに至ったが、先のアメリカ商人の要求やロジャーズの主張に関する箱館奉行の老中に対する上申や、とりわけ条文解釈におけるロジャーズの見解の正当性を認め、老中に対し早急に統一見解を提示するよう強く求めていること(『幕外』12-57)、などの事実に目を向けるならば、日米協約調印に至るまでの幕閣内の意志決定過程において、箱館奉行の果たした役割は大きこそすれ、決して小さなものではなかったとみることができるのではあるまいか。