ロシア軍艦の乗組員

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 ロシア海軍にとって、箱館は海軍病院もあり単なる寄港地というより保養地的な要素もあったことが窺える。それゆえ一時的に上陸する者のほかに、「居残り」の士官や水夫と呼ばれる乗員たちが滞留することもあった。元治元年の「魯西亜居留人数」の中に、難破船の乗員24名と病気の居残り9名という記録が残っている(文久4元治元子年「異船諸書付」道文蔵)。そのうち難破船の乗員たちは大町の築島でロシア商人ピョートル・アレクセフの経営する「ロシアホテル」に逗留していた。このホテルについては後述する。ところで通貨の引替については、前にふれた領事の他に軍艦の士官及び水夫も、その特典に浴した。「士官は毎日三ドルずつ、水夫は一ドルずつ」(前出『幕末開港期経済史研究』)が認められたのである。ロシア軍艦が入港すると乗員たちは次々と運上会所に金の引替に来るし、水夫たちを相手にするとなると、英語では役にたたなくなりロシア語通訳の養成も急がれたわけである。文久3年の「魯亜仏蘭書翰留」(道文蔵)には、両替を要請する士官の書き付けが何件もあるが、その他に「魯軍艦引替銀銭差引取調書」という書類も綴られている。それによれば、8月までリンダ、ノーウイック、ジャパニーズなど軍艦9隻に銀銭5789枚分を引き替えている。ちなみに「一八六三年八月、神奈川駐在英国領事ウィンチェスターの報告によれば、一か年の軍艦乗員への交換額は、横浜二〇〇万ドル、箱館一〇〇万ドル」(前出『幕末開港期経済史研究』)という。文久2年、3年の軍艦の入港数を見てみると圧倒的にロシア軍艦が多いので(表序-19)、このうちの大部分はロシア士官、水夫に渡ったことになる。その使いみちは知るよしもないが、ひとつ興味深い史料がある。それはロシアホテルの存在である。ここは、大町の埋立地(築島)が完成して分割した時に、領事ゴシケヴィッチが確保していた所で、元治元年にピョートルが引き継いで(「地税請取書」札学蔵)、恐らく同年にホテルが建てられたと考えられる。軍艦の乗員たちが上陸すると、このホテルを利用していたようなのである。「ロシア軍艦が入港するとこのホテルに市中の売婦が大勢やって来て遊女屋のようになり、築島の住人のみならず、用向きで来る人々にも大きな迷惑だ」(「英国官吏来翰録」道文蔵)と築島の外国人からの苦情があった。大町の居留地規則には宿屋や酒屋を作ってはならないとあるため、他の外国人が連名で抗議の書を提出したのである。これから推測すると、どうやら乗員たちは引き替えた金のいくらかは、ここで使ったのではないだろうか。ところで、明治2年になってここに、家、蔵、厩を日本人大工に発注したが、大工が途中で放棄しピョートル自身が後を仕上げるという記事がある(前出「検印録」)ので、再築されたのであろう。ピョートルの死後は妻のソフィアが経営にあたった。明治10年前後の使用人には、須川長之助(植物学者マキシモヴィッチ在日中の助手)や、川又篤礼(ニコライによる最初のロシア正教受洗者の1人)の妻がいるのも甚だ興味深い(「露西亜人より開拓使及県令に宛てた手紙の原文85通・訳文」)。なおこのホテルは明治16年に所有者が変わった時に閉鎖されたものと考えられる。
 
 表序-19 開港期の外国船入港船数
国別
船種別
1859
安政6
1860
万延1
1861
文久1
1862
文久2
1863
文久3
1864
元治1
1865
慶応1
1866
慶応2
1867
慶応3
総数軍艦
捕鯨船
商船
計
32(25)
37(4)
23(19)
92(48)
13
21
30
64
16
16
17
49
26
15
37
78
19
4
45
68
6
7
67
80
13
14
45
72
14
12
39
65
11
11
50
72
アメリカ軍艦
捕鯨船
商船
計
0(0)
36(4)
13(10)
49(14)
0
18
15
33
0
15
8
23
1
15
17
33
0
4
16
20
0
7
10
17
0
14
3
17
0
10
1
11
1
9
4
14
ロシア軍艦
捕鯨船
商船
計
26(20)
0(0)
0(0)
26(20)
8
3
1
12
14
1
0
15
23
0
4
27
17
0
1
18
4
0
0
4
9
0
2
11
10
0
2
12
2
0
2
4
イギリス軍艦
捕鯨船
商船
計
5(5)
0(0)
10(9)
15(14)
4
0
13
17
2
0
9
11
0
0
14
14
2
0
21
23
1
0
48
49
3
0
27
30
4
0
20
24
6
0
29
35
オランダ軍艦
捕鯨船
商船
計
1(0)
0(0)
0(0)
1(0)
1
0
1
2
0
0
0
0
1
0
2
3
0
0
2
2
1
0
0
1
0
0
2
2
0
0
0
0
0
0
2
2
フランス軍艦
捕鯨船
商船
計
0(0)
1(0)
0(0)
1(0)
0
0
0
0
0
0
0
0
1
0
0
1
0
0
1
1
0
0
2
2
1
0
5
6
0
0
9
9
1
0
3
4
プロシア軍艦
捕鯨船
商船
計
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
4
4
0
0
7
7
0
0
6
6
0
2
7
9
1
2
9
12
デンマーク軍艦
捕鯨船
商船
計
0
0
0
0
0
0
1
1

 『大日本古文書幕末外国関係文書』「異船諸書付」(北海道立文書館蔵)、『イギリス領事報告』(国立国会図書館蔵)による。
 安政6年の( )は、6月~12月(貿易港となってから)の分。
 1864年の捕鯨船数は元治元年「応接書上留」によった。『イギリス領事報告』は1865年のみ捕鯨船数を掲載しているが、その他の年次は特に触れておらず、商船数のなかに含めている。このため同史料の個別の船舶一覧があるので日本側史料や出港地、出港先などから捕鯨船を識別して、その艘数を掲載した。
 プロシアは万延元年、デンマークは慶応2年それぞれ修好通商条約を締結。