塩田三郎
安政6年6月に外国との交易が開始され、運上会所も創設された。新規の建物は万延元年10月に落成して、以後通訳たちはこの役所で勤務することになる。安政6年2月末には運上会所の定員などが定められたが、その「詰合人数」には各役々に混じって、名村五八郎、立広作、派遣の通詞3人がいた。昼夜ない業務であったため、泊番が設けられその中にも通詞1人が入っていた(安政6未年正月より12月迄「異船諸書付」道文蔵)。その後7月には派遣の通詞西富太が加わり、さらにそれから塩田三郎、海老原錥四郎も加わった。そこでの通訳の仕事ぶりは、運上会所の書類にある一件がよく示している。交易開姶に伴う諸係役人の労をねぎらって、「御褒美」を願うという書類(万延元申年正月より12月迄「応接書上留」)であるが、それによれば、昨年春以来仕事は今までに例がない程複雑な対応に追われ、在留の外国官吏はいつでも苦情を申し立て、特に両替金については、面会をして談判し、話をつけるのにただならぬ苦労をしている。また各国の船が入れ替わり入港してきて、停泊しない日がないほどである。船からの税の取り立てや、諸勘定についても細心の注意で扱い、昼夜、寸尺の余暇もないという。通訳は、必ずこのような場面に立ち会うわけでその苦労がしのばれるが、この願いは「御沙汰及び難し」という一行で、却下されている。実際の通訳の仕事の例をあげると、まず交易開始により、外国人と日本商人との商取引の時に出向くことも任務となった。しかし、堀、荒木、植村の3人の派遣通詞はその任務について、積荷物の値段を決める際など、商人のもとへ行くのはよいが、勝手に店先に呼び、通訳してくれと言うのは、公私混同ではないかとして、免除を願い出ている。これは結局、もっともだが、やむを得ないこととして却下された(『幕外』24-180)。あるいは、安政6年8月にアメリカ商船が奥尻島沖で難破した際、その救助に向かった大野丸には、植村直五郎が乗り込んでいた(「大野丸米船救助記」『大野市史』藩政史料編2)。こうした外国人がからんだ事件があれば、出動せざるを得なかっただろう。雑多な仕事が多かったことが推測される。
このような多忙な時期に、名村五八郎は通商条約の批准のための遣米使節の通訳に抜擢された。安政6年末に出府してから、翌万延元年の12月まで箱館を留守にしていたのである。この時の副使が箱館奉行の村垣淡路守であったこともあろうが、名村は日本を代表するような英語通訳にまでなっていた、と考えてよいだろう。まさに箱館港という現場でたたき上げた成果といえる。その間、開港後のめまぐるしい毎日の通訳、翻訳業務をこなしたのは、長崎からの派遣通詞と名村の生徒たちであった。しかし、書簡の翻訳には理解できないことも数々あったようだ。なお万延元年に派遣通詞の交代があり、堀、荒木、植村はこの年の暮れに帰郷して、西六馬と松村喜四郎が到着している。