5月11日の総攻撃で箱館を制圧した新政府軍は、翌日からは五稜郭および弁天岬台場を艦砲攻撃した。12日の甲鉄からの砲撃は激しく、試発の1、2発以外は五稜郭へ飛来、会合中の衝鋒隊幹部数人が爆死し、隊長古屋佐久左衛門も重傷を負い再び立つ事はなった(6月14日死去)。この日、福山の戦いで重傷を負っていた遊撃隊長伊庭八郎も「創ニ堪ヘズシテ眼ヲ怒ラシ拳ヲ握リ敵ヲ罵ナガラ」(「北州新話」)五稜郭の土に帰った。
一方では脱走軍に対し降伏勧告交渉が開始された。12日の夕方薩摩藩の池田次郎兵衛らが、前日の箱館市街戦での戦禍を免れた箱館病院を訪れ、矢不来で負傷した会津遊撃隊長諏訪常吉を見舞い、和平の斡旋を依頼した。諏訪常吉は藩主松平容保が京都守護職時代京都にあって小野権之丞と共に諸藩との折衝を担当、薩長同盟成立以前の薩摩藩とは都城守護で緊密な連携関係にあった。しかし常吉は重傷だったので(翌日死去)、小野権之丞と箱館病院長高松凌雲にこの事を託した。凌雲は慶喜の侍医を勤めた医師で、慶応3年にパリ万国博覧会を松平民部大輔昭武(慶喜の実弟)の随行員として視察、その後フランスで外科医術を研修し明治元年5月に帰国、旧幕海軍に身を投じ、前年の戦闘では両軍の負傷兵を分け隔てなく手当てを施し、フランス留学で身に付けた赤十字精神を発揮した人物であった。彼は、病院事務局長小野権之丞と共に降伏勧告書を認め、13日弁天岬台場と五稜郭へ送ったが、榎本の交戦決意は固く、14日、徳川家による蝦夷地開拓が認められない限り、降伏できない旨返書してきた(「東走始末」『高松凌雲翁経歴談』)。この時榎本は、オランダ留学中のテキスト『万国海律全書』が「皇国無二ノ書ニ候ヘバ兵火ニ付シ烏有ト相成」ことを惜しんで新政府軍海軍参謀へ送り、籠城決死の覚悟を披歴した。またこの日、薩摩の軍監田島圭蔵は弁天岬台場を訪れ、榎本の翻意をうながすべく面会の取り次ぎを依頼した。永井玄蕃らがこれを五稜郭に伝え、千代ヶ岱付近の1軒屋で田島と榎本との会見が行われた。田島は誠意をもって恭順をすすめたが、榎本はついに翻意せず、新政府軍の降伏勧告交渉は不成功に終わった。五稜郭へ戻った榎本は、傷病者を湯ノ川村へ送り、最後の決戦に備えた。