開拓使は東久世長官以下が函館に在勤以来札幌の地に本府建設を進めてきたが、明治4年4月ようやく仮庁舎が竣工、東久世長官は札幌に移ることとなった。4月19日函館を出発、24日に札幌に入り、岩村判官、西村権幹事の出迎えを受け、翌25日から庁舎に出勤、執務に就いた。これにより札幌の開拓使庁が本庁となり、5月23日、各庁舎名を「札幌開拓使庁、函館出張開拓使庁、根室出張開拓使庁、開拓使何郡出張所」とすることを触示した(東久世長官「日録」写)。函館の開拓使出張所は、函館出張開拓使庁となり、明治2年末から函館に在勤していた杉浦誠権判官(5年2月9日判官、同年9月3日中判官、8年3月12日3等出仕となる)がその主任官となった。所管地は渡島国の内松前藩地(福島、津軽、檜山、爾志の4郡)を除く亀田、上磯、茅部の3郡であった。その後4年8月に北海道の分領支配が廃止されて胆振国山越郡と後志国磯谷、歌棄、久遠、奥尻、太櫓、瀬棚、島牧、寿都の8郡が管轄地に加わった。この間、4年8月8日には分離されていた樺太開拓使が再び北海道開拓使に合併され、東久世長官が10月15日に侍従長に転出、樺太専務であった黒田次官が次官(7年8月2日長官に昇任)のまま開拓使を掌握し、使庁、出張使庁体制が見直されることとなった。
明治5年9月14日、札幌開拓使庁を札幌本庁と改称、その他は支庁とすることとし、函館、根室、宗谷(6年2月に留萌支庁とし、8年3月廃止)、浦河(7年5月廃止)、樺太(千島樺太交換条約により8年11月廃止)の5か所に支庁が置かれた。函館出張開拓使庁も函館支庁となった。それから6日後の9月20日、先に開拓使の所管地から外れていた元松前藩の領地が函館支庁の所管となり、北海道全域が開拓使の所管となった。松前藩は廃藩置県により館県となった直後、その所管地は4年9月に弘前県(この月の内に青森県となる)に合併されて青森県松前出張所が置かれていたのである。
この時の函館支庁の所管地は、渡島国亀田、上磯、茅部、福島、津軽(福島津軽の2郡は14年6月松前郡となる)、檜山、爾志の7郡、胆振国山越郡、後志国磯谷、歌棄、久遠、奥尻、太櫓、瀬棚、島牧、寿都の8郡であった。この枠組みは開拓使が廃止されて3県体制(15年2月8日)となっても、函館県の所管地として受継がれ、北海道庁設立(19年1月26日)後は道庁の函館支庁へも受継がれた。