箱館戦争が終わったとき、諸藩派遣の新政府軍は次々と自藩へ戻り、箱館には箱館府直属の新兵隊と在住隊が残った。新兵隊は、箱館府が旧幕箱館奉行から諸務を引き継いだあと、箱館および近在の庶民の子弟を募集して編成した親兵隊が母体である。親兵隊の編成は明治元(1868)年7月頃のようである。伊予国新居郡楢木(愛媛県西条市楢木)出身で旧幕箱館奉行所同心格歩兵隊嚮導役秦斗鬼三(のち一明)が、7月15日に隊長(趨事席)に任命されており、秦斗鬼三の役宅がこの隊の屯所に付属していた。この隊は、知府事清水谷公考以下が榎本ら旧幕府脱走軍に追われて青森に渡ったとき随従、この時隊名を新兵隊と改めた。また、在住隊は、旧幕安政期に蝦夷地に移住した幕臣[在住]をもって編成されたためこのように呼ばれたのである。箱館奉行所同心黒沢伝之丞(のち正吉)が、同年10月16日に隊長(従事席)に任命されており、脱走軍が蝦夷地に向かったという風説の中で誕生した隊のようである。鷲ノ木から上陸した脱走軍とは七重村、峠下村で戦闘を交えている。この隊もその後青森に逃れたが、そこでこの隊は再編が行われたようである。明治2年10月の開拓使の官員進退調査によると、在住隊員は「在住」以外に、神衛隊、壱番隊、弐番隊、カガノカミ艦(陽春艦と改称)水夫から構成されと多彩になっている。神衛隊は、明治元年8月に高龍寺の海雲師が主唱して編成され、箱館府から名字帯刀が許された銃隊である。壱番隊、弐番隊は、旧幕の歩兵隊を引継いだもので、2小隊構成のためこのように呼ばれたようである。この新兵隊と在住隊が、箱館戦争後の箱館の治安を担当することになったわけである。このため明治2年8月5日に両隊が合併し、秦斗鬼三がその隊長となった(「函館府御沙汰留」)。主な仕事は、箱館の町の警備と外国船入港の際に祝砲を打つことであったようである。
箱館府からこの函衛隊を引き継いだ開拓使は、まず9月27日東久世長官自ら彼らに箱館戦争従軍に対する賞典(3か年間毎年米2500石下賜)を申渡した。その時の函衛隊の構成は「隊長 秦斗鬼三、半隊長北野直七郎、嚮導役宮地重三郎、外山竹三、月館亦吉、小柳市三郎、押伍前田一学、伍長佐々木勝太郎以下七人、銃卒総計百十四名」(東久世長官「日録」写」)と長官はメモしている。
この直後に行われた官員進退調査等では133人ほどの隊員が確認できた。元新兵隊員は、箱館およびその近在の出身者(進退調べにはその身分百姓とある)が大多数であった。