邏卒設置後の経緯

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 函館邏卒設置の伺書を正院に提出する直前の8月5日、黒田次官は「樺太州ノ義ハ魯人雑居ニテ屡々盗難ノ患者等有之、自然混雑相生ジ人民安堵不仕場合モ有之ニ付」ということで、元斗南県士族(青森県貫属)15人を樺太州取締邏卒として派遣することにした旨を正院へ報告していたが、10月に入って彼らの内12人(表2-7参照)が函館に到着した。ところが季節がすでに冬に向かう時期に入っていたため樺太へ派遣することを断念し、10月26日彼らを函館邏卒に採用、青森県へはその旨を通知した(「開公」5506)。
 
 表2-7 青森県貫属(元斗南藩士族)邏卒表
氏名
職名
発令月日
職名
発令月日
職名
発令月日
記号
篠田金之丞(清性)大邏卒5.10.26願免39
井深基(礎)中邏卒5.10.26大邏卒5.11.29等外1等6.3.923  *
大内粂八(守辰)少邏卒5.10.26願免8.10.415
菊地直太(秀当)少邏卒5.10.26中邏卒5.11.29等外2等7.6.834□*
佐々木覚之進(恂美)少邏卒5.10.26免職6.4.2少邏卒6.12.327  *
佐瀬辰之助(順胤)少邏卒5.10.26免職少邏卒6.8.2028
篠沢乕之助(秀方)少邏卒5.10.26中邏卒5.12.127
永田二平(武)少邏卒5.10.26中邏卒5.11.2928
飯島清次郎(光正)少邏卒5.10.2629
菅喜代治(則貫)少邏卒5.10.2629
相田俊蔵(春元)少邏卒5.10.2629□*
田中翠(玄夫)少邏卒5.10.26中邏卒6.4.5大邏卒7.6.1421
加藤寛六郎少邏卒5.10.2623
河合平太(玄寿)少邏卒5.10.26中邏卒8.1.13願免8.8.3020
原直次郎(則厚)少邏卒6.1.25会所学校教員9.9.2919□*
熊谷勝太郎(光儀)少邏卒6.1.25中邏卒7.6.14大邏卒8.9.420□*
東海林雄吉(勝大)少邏卒6.1.25中邏卒8.1.1322□*
十倉綱紀少邏卒6.1.25中邏卒6.8.30等外2等 8.12.2223□*
宮下茂太郎(忠美)少邏卒6.1.2519□*
勝見周造(忠信)少邏卒6.1.25秋田県27
斎藤昭信2等権区6.7.29千葉県31

 明治5年2月「官員明細短冊」、明治6年「職員表」、明治8年「職員表」より作成
 □印は明治6年6月24日(戸籍調査簿を完成し民事課へ引継いだ日)邏卒として在籍者
 *印は明治15年までの函館在勤が確認できた者
 かっこ内の通称名乗は廃名したもの
 勝見と斎藤は斗南藩出身者ではないが、明治6年中の採用者なので加えてある。
 
 ここで函館邏卒は41人(大邏卒4人、中邏卒9人、少邏卒28人)となったが、翌月不用と断った元斗南藩士族の3人が到着、これも11月25日付けで採用し、翌6年1月さらに6人を採用、ようやく当初見込の50人体制となった。この間、明治5年10月には山内久内が邏卒権検官、翌11月には海老名敬行と古野崇央が3等権区長となった。
 次いで6年4月2日、9等出仕として邏卒を統括していた有竹裕が、大主典に昇任すると同時に邏卒総長心得兼務となって当初編成見込が完成したのである。
 5年11月には市中取締規則(函館支庁第150号布達)18か条が布達された。この規則は、「火事場デ乗馬ハ勿論消防ノ妨ゲニ不相成様可致(第四項目)」とか「道路デ酔ニ乗ジ猥ガ間敷振舞イ致シ、或ハ裸又ハ帯ヲモシメズ見苦敷姿ニテ徘徊不相成(第七項目)」ことなど市民生活上でしてはならないことが列記されたものであった。これは翌6年2月違式詿違(いしきかいい)条例(函館支庁第22号布達布達)として整理されて布達された(3月1日施行)。違式というのは規則を犯すことで、詿違というのは心得違いをすることで、明治6年「箱館町会所御触書」によると違式違反者は150銭から75銭までの贖罪金、詿違違反者は12銭5厘から6銭2厘5毛までの贖罪金を徴収されるとあり、現在の交通反則金のような制度であった。また、この贖罪金を納めることが出来ないものは懲役刑で、違式は笞罪(20~10笞)、詿違は拘留(2~1日)であり、違式罪目としては21か条、詿違罪目としては25か条が挙げられている(「明治六年箱館町会所御触書」)。市中取締規則で挙げた条項以外のものを2、3挙げると、地券所持の者諸上納銀を怠り地方の法違背致す者、身体刺繍を為せし者、男女入込の湯を渡世する者、外国人を無届にて止宿せしむる者、夜中無灯の馬車を以て通行する者(以上違式罪目)、狭隘の小路を馬車にて馳走する者、暮6時より荷車を挽く者、者を打掛け電信線を妨害する者、犬を闘はしめ及び戯れに人にけしかける者、巨大の紙鳶を揚げて妨害を為す者(以上詿違罪目)等である。なお、この罪目はその後数度にわたって改正が行われたが、明治14年12月27日に違警罪目が制定されて違式詿違条例は廃止された(『布類』)。
 その後、明治7年10月に検官制の整理、9年2月に警部巡査制の導入、10年2月には1月に行われた書記官制導入をうけた整理と、数度にわたって官等改正が行われている。これらの動きを一覧表に整理すると表2-8の通りである。
 表2-8 邏卒官等表
明治5年9月創置時明治7治7年10月改
明治7年10月第139号達書
明治9年2月改正
明治9年太政官第10号達書
明治10年10月改正
官等
職名
月給
官等
職名
月給
官等
職名
月給
官等
職名
月給
8等
8等邏卒長70円
8等警部長70円8等1等警部60円
9等総長心得509等9等1等警部509等2等警部50
10等10等邏卒1等検官4010等2等警部4010等3等警部45
11等権検官3011等邏卒2等検官3011等3等警部3011等4等警部40
12等12等邏卒3等検官2512等4等警部2512等5等警部35
13等権区長2013等邏卒4等検官2013等5等警部2013等6等警部30
14等14等邏卒5等検官1514等6等警部1514等7等警部25
15等3等権区長1215等邏卒部長1215等警部補1215等8等警部30
14等14等邏卒5等検官1514等6等警部1514等7等警部20
等外1等大邏卒10等外1等大邏卒10等外1等1等巡査8.7516等9等警部15
等外2等中邏卒8.5等外2等中邏卒8.5等外2等2等巡査7.2517等10等警部12
等外3等少邏卒8等外3等少邏卒8等外3等3等巡査6.75等外1等1等巡査10
等外4等等外4等等外4等4等巡査6.25等外2等2等巡査8.5
等外3等3等巡査7.5
等外4等4等巡査7

 「開拓使公文録」5506、『開拓使事業報告』、「大政官日誌」『維新日誌』、『開拓使事業報告布令類衆』上より作成
 邏卒が等外吏に准等されるのは明治8年6月なので、上の表中の大中小邏卒は一応の目安として入れたものである。
 
 この間、7年1月、邏卒係(民事課所管)は警邏係と改称され(「開公」5738)、さらに9年2月2日に警部巡査制が導入された時、警察係と改められた。この改称はその前年の12月に「開拓使行政警察規則」が制定されたのをうけたものである。この規則は警察の職務を明文化したもので、第1番に掲げたことは「人民ノ妨害ヲ予防シ安寧ヲ保全スル」ことであったが、同時に警部に対して「区内ノ人員戸数職業等ハ成丈詳知スルヲ要スベシ」との指示が付けられたものでもあった。また警察実務を担当した邏卒屯所は、第1大区の邏卒本営(8年11月に邏卒屯所と改称(「開公」5822))が地理的に不便ということで、8年3月に第1大区4小区元町99番地の旧本陣(明治4年に民費4444円余で新築)にその半分を借りて移っており、9年1月、第2大区西浜町の邏卒屯所を吸収合併後(2大区屯所は邏番見張所となる)、4月に旧本陣全体を買上げている(「開公」5843)。ところが10年2月17日に焼失して一時旧町会所に移り、11年7月1日会所町4番地に新築移転したが、これも12年12月6日の大火で類焼し支庁内門長屋に仮住まい、14年1月松蔭町(松蔭町は14年7月富岡町に吸収合併)に新築移転と変転している。名称については、先に西浜町の邏卒屯所を吸収合併した時警察係出張所と改称され、さらに翌10年4月5日には「警察署配置及ヒ名称ニ関スル件」(13年1月内務省乙第5号府県達)に準拠して函館警察署と改称され(「開日」)、11年2月には函館支庁民事課の警察係がこの函館警察署内に移された(『開事』)。一方、蓬莱町に仮設置されていた第2大区邏卒屯所も8年4月に類焼し、恵比須町に新築移転していた。この屯所も第1大区の屯所が警察係出張所となったとき、第1号巡査屯所と改められ、翌10年4月に函館警察署函館分署と改称されている(「開日」)。なお今でも「交番」と通称される巡査派出所は、11年6月には地蔵町に巡査交番所という名称で創置され、その後巡査派出所と改称されて次第にその数を増している。
 なお、函館支庁管下では、8年8月に松前江差地方に邏卒屯所が設置された(『開事』)が、実際に邏卒の発令が行われたのは9月12日で、各中邏卒2人、少邏卒8人の構成であった。この両屯所は、9年2月函館の第3大区邏卒屯所が第1号巡査屯所と改称されたとき、第2号巡査屯所(福山屯所)、第3号巡査屯所(江差屯所)と改称され、翌10年4月には、函館警察署福山分署、函館警察署江差分署と改称された(「開日」)。