町会所
函館の町会所は、幕末期には奉行所の表門に付属した長屋(門長屋という呼称もある)の向かって左手に町年寄の詰所という形で置かれていた。維新後、奉行所が開拓使の庁舎として用いられるようになった後もそのままであったが、明治5年に大小区制を導入したのを契機に、会所町(第1大区4小区会所町16番地)に新築移転したようである。西洋形建家と呼ばれ、規模は表間口6間4尺、奥行6間1尺の総2階建(総坪数約80坪)であった(「区入費評議留」道文蔵)。戸長副戸長は門長屋の詰所を出て執務場所をここへ移したのである。この町会所、新築移転の時期や具体的内容を明確にすることはできなかったが、明治6年の大区割費の費途は「町会所・駅場・町用掛月給・町会所取建拝借金納メ其外一切区入費大区割総合計」とあって、町会所建設のために開拓使から借りた拝借金の割賦返済分も割当てている(「杉野家文書」)ので、明治5年中に建設が完了してようである。また建築費は、3000円近くを要したものと思われ、この町会所建設について邏卒権検官山内久内は、「箱館戦争の災禍からの復興促進のため三年間免税という状況の中で、多額の民費を注ぎ込んだ町会所建築は、疲弊の人民のための免税という趣旨に合わず、人民が大いに利便を得るのでなければ、この町会所は廃止して官が建物を利用するか、希望者に払下げるかして、入費は人民へ返還しては」と、人民の民費軽減という点から町会所新築を批判的にとらえている(明治6年「会議書類」道文蔵)。
また、有竹裕大主典も事務の簡便という観点から町用扱所を大区毎に設けることを主張し、町会所については「方今新築ノ町会所ナルモノ堂々タル其形容アリト雖、其実ニ於テハ甚迂闊ノ長物タルヲ免レズ、三大区中東ハ亀田ノ境ヨリ西ハ山背泊ニ至ル迄ノ事務此一所ニテ取扱フガ故ニ、事々ノ不便言ヲ待ザルナリ、殊ニ庁ト二町余モ隔絶スルガ故ニ、戸長ヲ庁ニ呼ト雖モ無益ノ時間ヲ費セリ、加之半バ民費ニ出ルヲ以テ下民ニハ紛々ノ説モアリ、且願届ナドモ取扱フニ手数ノ煩アルガ故ニ、下民ノ苦情ナキニアラズト」(同前)と述べて、正副戸長の詰所(町会所)は民政担当の民事掛に近接したところに設けるべきとの論を展開、町用掛が町会所と町用扱所両方に交番する体制を提案している。
しかし前述の通り、函館では大区毎に町用扱所を設ける方向には向かわず、町内および連合町内の事務を取扱う小規模な扱所(小区扱所)が設けられ、町用掛がこの小区扱所を所管する体制となったのである。この体制が定着したところで、明治10年2月16日、函館支庁は、第14・15・16大区戸長へ「従前町会所ニ於テ取扱ノ事務、自今当支庁中ニテ可取扱」(明治10年「御達留」)という達書を出し、戸長達へ町会所から支庁内に移って事務を執るよう指示した。戸長達の詰所(町会所)は再び支庁内に戻ったのである。
なお前年4月には、有竹、山内の主張に沿って町会所内の事務処理を簡素化する布達「従来人民願伺届等都テ戸長ヲ経差出来候処、自今後戸籍土地及租税等ニ関スル事件、戸長其外奥書ニ及ハス」(『布類』、なお同年9月第92号布達により「其他戸長奥書調印スヘキ旨公布有之事件ヲ除クノ外」戸長其外奥書ニ及ハスと追加された)が出され、一般的な願伺届には、もっとも煩雑だった戸長以下の奥書調印が不要となっていた。
戸長の執務場所が支庁内に移ったため、会所町の町会所は、旧町会所となり空家となった。ところが翌17日未明、元町の警察係出張所が失火焼失、当分の間ということで警察係出張所がこの旧町会所を仮事務所とした。その後、函館警察署は翌11年7月に会所町4番地に移転開庁し、8月からは誕生間もない第百十三国立銀行が1か月貸し料15円でこの旧町会所に入ったが、翌12年12月6日の大火で焼失した。